アタイ (建州女真)
名称表記 | |
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満文 | ᠠᡨᠠᡳ |
転写 | atai |
漢文 | |
出生死歿 | |
出生年 | 不詳 |
死歿年 | 万暦11(1583) |
血筋(主要人物) | |
岳父の父 | ギオチャンガ(清景祖) |
父 | 王杲 |
妻の叔父 | タクシ(清顕祖) |
妻の従兄弟 | ヌルハチ(清太祖) |
父の身柄を明朝に引き渡したハダ国主・ワンを仇敵として憎み、同じ境遇に遭ったイェヘのヤンギヌ兄弟などと結託して明朝辺疆を度々侵犯した。本拠地・グレ城を明軍に包囲され、最後は唆された部下によって殺害された。
グレの戦役ではアタイとともにヌルハチの祖父・ギオチャンガと父・タクシも巻き添えをくって横死し、この時の明朝側の対応が、ヌルハチに打倒明朝を決意させるきっかけとなった。
略歴[編集]
万暦3 (1575) 年、明軍の追撃を避けてハダ領に潜んでいたアタイの父・王杲は、ハダ国主・ワンと子・フルガンに執えられ、紫禁城に送られた後に馬市で磔死した。[3]明朝はその妻子27人をワンに帰順させ、[3]アタイはフルガンに依帰した。[4]アタイはしかし、父・王杲をまんまと裏切って明朝に引き渡したワン父子に対する復讐心を忘れず、臥薪嘗胆を続けた。[5]一方この頃、イェヘのチンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟もまた、祖父・チュクンゲを殺され、貢勅と属部を横奪された恨みからハダの殲滅を企んでいた。[5]
ワンが老いてハダの勢力も衰頽し始めた頃、イェヘの兄弟はハダの老国主を尻目にフルガンと対峙しつつ、ハダを襲撃してイェヘの故地奪還を果たした。万暦10 (1582) 年旧暦7月にワンが死歿すると、アタイは志を同じくするイェヘの兄弟に投じ、蒙古勢とも結託して孤山、鉄嶺、汛河[6]などを数度に亘り襲撃、掠奪した。[5][7]総督・呉兌は守備・霍九皋を派遣してアタイを説得させたが聴き容れず。[3]そこで遼東総兵・李成梁は軍を率いて曹子谷、大梨樹佃に進攻し、アタイの軍勢を破って一千余の首級[8]をあげた。[3]吉報をうけた神宗・万暦帝は喜悦し、同日中に戦捷を発表させたという。[9]
万暦11 (1583) 年旧暦正月、アタイは毛憐衛莽子部落の徒党・アハイ[10]を糾合し[6]、大挙して再び明朝の辺疆を侵犯した。一隊は静遠堡の九臺[3]から、もう一隊は榆林堡からそれぞれ進軍して瀋陽城 (現遼寧省瀋陽市) の南渾河まで迫ると、[5]更に長勇堡から渾河東岸に迫り、蒙古勢を糾合して広寧、開原 (現遼寧省鉄嶺市開原市) 、遼河などをそれぞれ盛大に掠奪した。[3]明朝側は痺れを切らして翌2月、撫順 (現遼寧省撫順市) の王剛台 (不詳) より出兵し、百余里のところに在るアタイの本拠地・グレ城 (現遼寧省撫順市新賓満族自治県上夾河鎮古楼村) を直接襲撃した。[5]グレ城は天険に築かれ、岩壁が屹立し、塹壕が掘られた難攻要塞であった。[5]李成梁はグレ要塞を二昼夜に亘って火攻めにし、果てにアタイは射殺された。[5]これに先立って秦得倚の軍は莽子寨を攻略してアハイを誅殺し、[5]明軍は合計で二千余の首級[11]をあげた。またこの頃、二代目ハダ国主・フルガンが前後して病歿した。[12]
背面[編集]
万暦11 (1583) 年のグレ攻城戦で命を落としたのはアタイだけではなく、ギオチャンガとタクシも含まれていた。ギオチャンガは後に清朝太祖となるヌルハチの祖父 (景祖)、タクシは父 (顕祖) である。[13]
グレ城があったスクスフ部[14]には合計で七つの城があり、[15]そのうちの一つであるトゥルン城[16]にはニカン・ワイランという城主がいた。ニカンは同じ部内の競合者であるグレ城主・アタイとシャジ城主・アハイを潰す為、アタイ誅殺を計画していた李成梁と内通して明軍を引き入れた。李成梁はニカンに兵符[17](指揮権) を与え、[18]分隊してグレ城を包囲する一方で、遼東副将をシャジ城へ派遣し、二城を同時に攻撃した。[19]シャジ城では、明軍をみて慌てた兵卒が逃亡したが、進路を断たれて城ごと包囲された。[19]シャジ城が陥落してアハイが殺害されると、副将の隊が合流してグレ攻城戦に加勢した。[18]
アタイの妻はギオチャンガの長子・リドゥンの娘で、ヌルハチの従姉妹にあたる。孫娘の危機を知ったギオチャンガは、タクシを連れてアタイの救援に向った。[13]ギオチャンガはそこで李成梁の軍が戦闘命令を受け取っているのを目撃すると単独で城内に進入し、孫娘を連れ出そうと試みた。[18]ところが妻を渡そうとしないアタイとの間で押し問答が始まり、城外で待っていたタクシも痺れを切らして城内に進入した。[18]
一方の李成梁は難攻要塞に手を焼き、攻撃失敗の責任をニカンの不用意な挑発行為に転嫁した。立場の弱いニカンは責任を懼れ、状況打開を狙って城へ至ると、城内に向って「アタイを殺して投降した者を次の城主とする」[13]と叫んでアタイの兵士をけしかけた。アタイの部下は奸計と疑わずアタイを殺害したが、城外へ出たところを李成梁によって片端から殺害された。ニカンはさらに明軍兵士と組み、どさくさに紛れてギオチャンガとタクシ殺害した。[18]
これを知ったヌルハチは慟哭し、辺塞武官にニカンの引き渡しを要求して詰め寄ったが、武官は二人の祭祀と、貢敕30道、馬30匹、龍虎将軍 (一種の勲官)、都督敕書を弔問代りに与えただけで、ニカンの引き渡しは拒否した。それどころか、「ニカンを満洲の主とす」[20]と発言した為に、ヌルハチの属部は疎か、ニングタに住むヌルハチの宗族までもがニカンに諛い、ヌルハチ殺害を謀るようになった。すっかり君主気取りのニカンに帰順を諭されたヌルハチは、ここに仇敵・ニカンの誅殺と明朝打倒を決意し (後の「七大恨」)、13人の臣下とともに建州部の統一を目指すこととなる。ヌルハチ25歳の年であった。[13]
年表[編集]
万暦3 (1575) 年旧暦7月、父・王杲が捕縛され、のちに磔死。
万暦10 (1582) 年旧暦7月、ハダ国主ワン死歿。この頃イェヘに帰順。
万暦10 (1582) 年旧暦9月22日[5]、李成梁の軍が曹子谷に進攻し、アタイ勢力の多数を斬伐。
万暦11 (1583) 年旧暦正月[5]、徒党・アハイらを糾合して明朝辺疆を掠奪。
万暦11 (1583) 年旧暦2月[5]、居城のグレで部下により殺害。
親族[編集]
血族[編集]
王杲:建州部首領。
- 子・アタイ
- 子・アハイ (阿海)
姻戚[編集]
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一部学者にはアタイをヌルハチの外祖父・阿古都督と同一視する向きもあるが、[21]反論もある。[22]近年では概ねヌルハチの母方の叔父、或いは父方の従姉の夫 (堂姐夫) とする説が有力である。
雑学[編集]
ヌルハチは万暦21 (1593) 年にイェヘを盟主とする九部聯合軍30,000の軍勢と戦い、「烏合の衆にすぎぬ」と吐き捨ててこれに圧勝した (→「古勒山の戦」)。その戦場がグレの山 (gure i alin) で、即ちアタイが本拠地としたグレの跡地である。この戦役で勝利したヌルハチは、金王朝由来の家柄を誇ってきたナラ氏のフルン (海西部) と立場を逆転させ、女真統一の大きな一歩を踏み出した。
脚註[編集]
- ^ 『東夷考略』、『明史』巻238、『明神宗實錄』、『清史稿』巻222。
- ^ 『東華録』巻1、『清史稿』巻1。
- ^ a b c d e f “王杲”. 清史稿. 222. 清史館
- ^ “序言”. 清史稿. 1. 清史館
- ^ a b c d e f g h i j k “建州女直通攷”. 東夷考略. 不詳
- ^ a b “李成梁”. 明史. 238. 四庫全書
- ^ 『清史稿』巻222には「王台卒,阿台思報怨,因誘葉赫楊吉砮等侵虎兒罕赤。總督吳兌遣守備霍九皋諭阿台,不聽。」とあるが、「誘葉赫楊吉砮等侵虎兒罕赤」の部分はほかの文献にはみえない。万暦3年に父が殺され、万暦10年にハダからイェヘに投じるまでの七年間、或いはイェヘに投じる直前にフルガンを攻撃したのか、詳細不明。
- ^ 『東夷考略』(建州女直通考)「……得級千三十九併獲喜樂温河衛指揮使銅印一顆……」、『明神宗實錄』「斬一千八百餘人并殲名王十六獲達馬幾五百」、『清史稿』巻222「……斬一千五百六十三級……」
- ^ “萬曆十年十一月3日”. 明神宗實錄. 130. 不詳
- ^ アハイ (阿海) については、「沙済城主の阿海」と、「莽子寨に住む毛憐衛女直の阿海」と二つある。前者はアタイの兄弟で、後者は族柄不詳。しかしどちらも同時代にアタイと協力関係にあったとされる点では同じ。(→「王杲」参照。)
- ^ 『東夷考略』(建州女直通考)「得級二千二百二十二」、『明史』巻238「獻馘二千三百」、『清史稿』巻222「斬二千二百二十二級」
- ^ “女直通攷”. 東夷考略. 不詳
- ^ a b c d “癸未年”. 東華錄. 1. 四庫全書
- ^ スクスフ:suksuhu aiman, 蘇克蘇滸河部
- ^ 柳邊紀略. 3. 不詳 . "……蘇克蘇滸河其地在清河邊外屬城寨之著者七曰圖倫城……曰古勒城曰沙濟城沙濟城主阿海與古勒城主阿太皆王杲子也……"
- ^ トゥルン:ᡨᡠᡵᡠᠨ, turun, 図倫。
- ^ “【兵符】へいふ”. 新字源. 角川書店. "❶いくさに用いる割り符。玉や銅などで作り、これを二つにわり、一方を天子、他方を出陣する将軍が持ち、天子の命令を伝えるときの証拠にした。"
- ^ a b c d e “國俗一”. 滿洲源流考. 16. 四庫全書
- ^ a b “nikan i daiming gurun i wan lii han i juwan emuci……”. 満和蒙和対訳 満洲実録. 2. 刀水書房
- ^ 『東華録』巻1の原文「當令爲滿洲主」(当ニ満洲ノ主ト為サシメントス)。
- ^ 孟, 森 (2006). 滿洲開國史講義. 中華書局. p. 194
- ^ 李, 林 (2006). 滿族宗譜研究. 遼寧民族出版社. p. 127