鹿村美久

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鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年明治17年)5月11日[1] - 1939年昭和14年)1月21日)は、日本実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。

来歴・人物[編集]

現在の愛媛県宇和島市に生まれる[2][3][4]京北中学校を優等で卒業後[5]、1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し[6][5]岩崎久弥男の知遇を得て三菱の海外研究生として[7][4][5]、3年間欧米に遊学した[8]。帰国後、三菱合資銀行部に入行した[2]豊川良平初代銀行部長の娘婿となった[5][9]

1909年に富士瓦斯紡績に入社[2]。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する[9][3]。営業部長(1919年)[4][3]。常務(1920年)を経て[2]、1925年如水会理事[10]。1927年には富士電力の専務となる[2]。1930年に富士瓦斯紡績の専務に就任した[2]。1935年には青木均一とともに資源局専門委員に就任する[11]。1938年に富士瓦斯紡績社長となる[2]

東京商工会議所常議員、日満実業協会理事、全国産業団体連合会常務委員[9]日本工業倶楽部評議員なども務めた[3]。1939年に病没し[7][12]従六位に叙された[13]告別式青山葬儀所で行われた[12]。性格は温厚[9]、寡黙で、読書家として知られた[4]。趣味は俳句漢詩囲碁[9]俳号は菱川[4]

親族[編集]

妻の静恵は豊川良平初代三菱銀行部長の二女で、自動車技術者豊川順彌は義弟[8]。潔白な性格で、「七光り」などと言われるのが嫌で、三菱から退社することを条件に、豊川からの縁談を受けたとされる[9]

著作[編集]

  • 『日本綿業の優越性』東京商工会議所 1934年

脚注[編集]

  1. ^ 『法人個人職業別調査録 第8版』国際探偵社、1938年、p.240
  2. ^ a b c d e f g "鹿村美久". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年5月3日閲覧
  3. ^ a b c d 会員追悼録日本工業倶楽部、1941年、pp.59 - 60(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ a b c d e 倉田春一『経済第一線』大鵬書房、1935年、pp.194 - 195(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ a b c d 長谷川豊『政界財界凄腕面々』有恒社、1936年、pp.38 - 39(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 東京高等商業学校一覧 明治38-39年』東京高等商業学校、1905年、p.196(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ a b "鹿村 美久". 20世紀日本人名事典(2004年刊). コトバンクより2024年5月3日閲覧
  8. ^ a b 鹿村美久 - 『人事興信録』第8版、1928年7月(リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の『人事興信録』データベース)
  9. ^ a b c d e f 日本教育資料刊行会(編)『新東亜建設を誘導する人々』日本教育資料刊行会、1939年、pp.992 - 993(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 官報 1925年10月27日
  11. ^ 官報 1935年11月16日』p.378(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ a b 日濠協会(編)『日濠協会総会々務報告 第11回(昭和13年度)』日濠協会、1939年、p.27(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 官報 1939年01月26日
先代
和田豊治
富士瓦斯紡績社長
1938年 - 1939年
次代
堀文平