純恵皇貴妃

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純恵皇貴妃

純恵皇貴妃(じゅんけいこうきひ、康熙52年5月21日1713年6月13日) - 乾隆25年4月19日1760年6月2日))は、乾隆帝の側妃。蘇州出身。姓は蘇氏、のち蘇佳氏。父は平民の蘇召南。

はじめ、宝親王の弘暦(のちの乾隆帝)の府邸に入り、格格(側女)となったとされる。

雍正十三年(1735年)、格格蘇氏は宝親王第三子永璋を産む。

乾隆帝の即位後、蘇嬪に冊立され、乾隆2年(1737年)には、純妃となった。

乾隆4年(1739年)、純妃の一族は正白旗に編入され、「蘇佳」姓が授けられた。

乾隆8年(1743年)、第六皇子質荘親王永瑢を産んだ。

乾隆10年(1745年)、純貴妃に封じられ、同年、第四皇女和碩和嘉公主を産む。

乾隆25年(1725年)、純貴妃所生の第六皇子永瑢と和嘉公主がそれぞれ結婚すると、純皇貴妃に封じられるが、直後に死去し、「純恵皇貴妃」と追贈された。

嘉慶帝から追贈された慶恭皇貴妃以外、乾隆帝の皇貴妃の中で、唯一裕陵に埋葬されていない妃である。代わって乾隆帝は巨大な墓を作って純恵皇貴妃を手厚く葬った。また、継皇后ナラ氏は没後に純恵皇貴妃の墓に葬られ、純恵皇貴妃の下位に安置されている。

子女[編集]

登場作品[編集]

伝記資料[編集]