百万塔陀羅尼
百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)は、奈良時代に制作された、100万基の木製小塔に、陀羅尼経を納めたものである。陀羅尼は、制作年が明確である、世界最古の現存印刷物である。
背景[編集]
764年(天平宝字8年)、恵美押勝の乱で亡くなった人々の菩提を弔うと共に、鎮護国家を祈念するために、称徳天皇が『無垢浄光大陀羅経』の説くところによって制作された。『続日本紀』宝亀元年(770年)四月二十六日条に、完成した百万塔を諸寺に納めたことが記されている[注釈 1]。この諸寺とは、大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・西大寺・法隆寺・弘福寺(川原寺)・四天王寺・崇福寺の十官寺を指す[注釈 2][注釈 3][注釈 4]。このうち、元興寺・薬師寺・法隆寺・興福寺・東大寺・西大寺の六寺には、「小塔院」と呼ばれる、百万塔などを納める堂宇も建立された[注釈 5]。
百万塔[編集]
木製三重小塔。塔身と相輪の2つから構成されており、塔身内部に陀羅尼を納める構造となっている。標準的なものは、総高21.2cm、基底部径10.6cm、塔身のみの高さ13.2cmである[注釈 6]。塔身はヒノキ、相輪は、細かな細工がしやすいサクラ、サカキ、センダン等の広葉樹が用いられる[5]。
塔身及び相輪は轆轤で挽いて鑿で削り[7]、軸部上端を筒状にえぐり、そこに陀羅尼が納められる。相輪は塔身の上部にはめ込まれている。現在は殆どが素地になっているか、白色(胡粉もしくは白土)が残る程度だが、法隆寺所蔵品の中には、群青・緑青・朱・黄土色を残す基がある[8]。基底部の裏面、相輪の基底部等に、制作年月日[注釈 7]や、制作者の氏名が墨書されたものがある[9]。
現存するものでは、法隆寺大法蔵殿に保存されている、塔身45,755基分・相輪26,054基分が最も多い。それ以外に、各地の博物館、個人に分蔵されている百万塔も、法隆寺旧蔵品だと推定される[10]。その他に、平城宮発掘地から、未完成のまま遺棄された物が出土しており、宮内に百万塔工房があったと考えられる[11][12]。
陀羅尼[編集]
幅5.5cm、長さ25cm~57cmの料紙[13]を繋げ、経巻にし、紙に包んで[注釈 8]から、塔に納められた。静嘉堂文庫所蔵の17巻の繊維を調査したところ、楮及び楮との混合品が15点を占めた[13]。ほとんどの料紙は、虫害防止を兼ね、黄檗で染められ、滲み防止の膠が引かれた[13]。
『無垢浄光大陀羅経』において、 釈尊は、死期迫る婆羅門らに6種の陀羅尼[注釈 9]を説き[15][16]、『続日本紀』にも、「露盤の下に各根本・慈心・六度等の陀羅尼を置く」と記されているが、現存する陀羅尼、法隆寺蔵3962巻等には、「根本」「相輪」「慈心印」「六度」の4種しか残っていない。「修造」「大功徳聚」は『続日本書紀』にも記述がないので、最初から無かったとする説があるが、『無垢浄光大陀羅経』では「根本」「相輪」「修造」「自心(慈心)印」をセットにし、その後に「大功徳聚」「六波羅(六度)」を説いているので、前者4種の内、「修造」だけ除くのは不自然であり、むしろ婆羅門が問うたのではない「自心(慈心)印」を省略する方が自然とも言え、「修造」「大功徳聚」だけが現存しない可能性も捨てきれず、結論は出ていない[17]。
陀羅尼は印刷物である[注釈 10]が、これほど大量の印刷物を、1枚の木版で印刷することは、版が磨耗し、不可能なので、複数の版を用いたか、金属版を用いた可能性も指摘されている[注釈 11]また、版ではなく、木製ないし銅製のスタンプを用いた説もある[20]。
『無垢浄光大陀羅経』は、則天武后下の704年(長安4年)、ないし、后が譲位し、国号が「唐」に戻った705年(神龍元年)に、漢訳され[21]た。そして直後の706年(神龍2年・聖徳王5年)には、新羅で同経が受容された[注釈 13]。
陀羅尼は上記のように、770年に制作されたもので、世界最古の印刷物と見なされていた[23]。しかし1966年に、現在の大韓民国慶州市にある仏国寺釈迦塔内の舎利容器に、木版摺の『無垢浄光大陀羅経』が発見され、国宝 126号に指定された。料紙は新羅製で、唐にて689年(載初元年)11月から8世紀初頭にかけて用いられた則天文字で記されている。同寺は751年(景徳王10年)に創建され、釈迦塔も同時期に建立されたが、それ以降、改築記録が無い為、751年以前の制作と言えることになる[24][22]。上記のことにより、百万塔陀羅尼は、「世界最古の印刷物」から、「制作年が明確な現存最古の印刷物」となった[25]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 「(宝亀元年四月二十六日)戊午、初め、天皇(すめらみこと)八年の乱平(たひら)きて乃ち弘願(ぐぐわん)を発(おこ)して、三重(さむぢう)の小塔(せうたふ)一百万基を造らしむ。高さ各(おのおの)四寸五分、基の径(わたり)三寸五分。露盤の下に各根本・慈心(じしむ)・六度等の陀羅尼を置く。是(ここ)に至りて功(くう)畢(をは)りて、諸寺(てらでら)に分(わか)ち置く。」[1]
- ^ 『東大寺要録』本願章天平宝字八年九月十一日条、諸院章第四「東西小塔院」に、「十大寺」に分置されたとある。『拾芥集』(藤原公賢撰。14世紀)下巻「本」第九諸寺部の十大寺 延喜十七年(917年)丁「丑」の条に、「大安寺 元興寺 弘福寺 薬師寺 四天王寺 興福寺 法隆寺 崇福寺 東大寺 西大寺」と記されている。『類聚三代格』(平安初期)巻三の延暦十七年(798年)六月の太政官符には『拾芥集』十大寺に法華寺を加えている。[2]より孫引き。
- ^ 青木らは、崇福寺ではなく、西隆寺をあげる[3]。
- ^ 湯浅は、元興寺『七大寺巡礼私記』に「八万四千」と記されていることを指摘し、内裏に納められた分もあり、一律に十寺に十万ずつ奉納されたとは言えないとする[4]。
- ^ 『南都七大寺巡礼記』(1452年・享徳元年)元興寺の条、『薬師寺縁起』西院の条、『太子伝古今目録抄』(1227年・嘉禄3年)大同縁起の条、『興福寺流記資財帳』東院の条、『東大寺要録』東西小塔院の条、『西大寺縁起資財帳』(鎌倉時代)堂塔房舎の条。[2]より孫引き。
- ^ 東京国立博物館蔵の48基、個人蔵の2基、計50基を計測した平均値[6]。『続日本紀』での「基の径三寸五分」は正しく、「高さ各四寸五分」は、塔身のみの値と分かる。
- ^ 読み取れた9基の年紀は、天平神護3年(767年)から神護景雲3年(769年)の間であり、『続日本紀』の記述と合致する。
- ^ 現存する包み紙には、「一」「二」「三」の墨跡がある。写真参照[14]。
- ^ 「根本陀羅尼法」「相輪中陀羅尼法」「修造仏塔陀羅尼法」「自心(慈心)印陀羅尼法」「大功徳聚陀羅尼」「六波羅(六度)蜜陀羅尼」
- ^ 肉筆の経巻も4巻確認されている[18]。
- ^ 勝村は、京都大学附属図書館所蔵及び天理大学図書館所蔵の陀羅尼において、経文中に二段に割れるひずみが見られる点や、料紙の上下に見られる墨跡から、銅版輪転機の使用を推察している[19]。
- ^ 国史編纂委員会編(1996)『韓国古代金石文資料集III 統一新羅・渤海編』pp.140-152.[22]より孫引き。
- ^ 「(前略)皇福寺石塔金銅舎利函銘「神龍二年丙午五月卅日 今主大王仏舎利四全金弥陀像六寸一躯無垢浄光大陀羅経一巻安置石塔第二層(後略)」[注釈 12]
出典[編集]
- ^ 青木 1995, p. 281.
- ^ a b 中根 1987, pp. 9–11.
- ^ 青木ほか 1995, p. 540.
- ^ 湯浅 2005b, p. 230.
- ^ a b 井上 2001, p. 24.
- ^ 成田 1980, pp. 115–117.
- ^ 成田 1980, pp. 117–122.
- ^ 平子 1908, pp. 14–15.
- ^ 湯浅 2005a, pp. 61–62.
- ^ 湯浅 2005b, p. 229.
- ^ 井上 2001, p. 25.
- ^ “なぶんけんブログ(105)平城宮と百万塔 (読売新聞(奈良県版?)2015年5月31日掲載)”. 2020年3月28日閲覧。
- ^ a b c 宍倉 2011, p. 310.
- ^ 宍倉 2011, pp. 311、314.
- ^ 湯浅 2005b, p. 220.
- ^ 勝浦 2006, p. 3.
- ^ 湯浅 2005b, p. 221-223.
- ^ 青木 1995, p. 540.
- ^ 勝村 1998, p. 2.
- ^ 中根 1987, pp. 41-46、68-71.
- ^ 勝村 1998, p. 3.
- ^ a b 勝浦 2006, p. 16.
- ^ 平子 1908, pp. 12.
- ^ 李 1968, p. 458-462、471-474.
- ^ 笹山ほか 2012, p. 60.
参考文献[編集]
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- 中根, 勝編著『百万塔陀羅尼の研究』八木書店、1987年。
- 高田良信「百万塔」『国史大辞典 11』吉川弘文館、1990年。ISBN 978-4-642-00511-1。
- 法隆寺昭和資財帳編集委員会, 編『法隆寺の至宝 昭和資材帳5 百万塔・陀羅尼経』小学館、1991年。ISBN 4-09-562005-6。
- 森郁夫「百万塔」『日本史大事典 5』平凡社、1993年。ISBN 978-4-582-13105-5。
- 青木和夫; ほか校注『新日本古典文学大系15 続日本紀4』岩波書店、1995年。ISBN 4-00-240015-8。
- 勝村哲也「『百万塔陀羅尼』の語るところ」『静脩』35(2)、京都大学附属図書館、1998年、1-2頁。
- “『百万塔陀羅尼』の語るところ” (1998年10月). 2020年3月28日閲覧。
- 増田, 晴美「静嘉堂文庫所蔵の百万塔及び陀羅尼について」『汲古』第37号、2000年。
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- “百万塔の思想的背景 : 南都仏教史における位置付けを考える”. 埼玉学園大学 (2005年12月1日). 2020年3月28日閲覧。
- 勝浦, 令子 著「東アジアの『無垢浄光大陀羅尼経』受容と百万塔」、速水侑編 編『奈良・平安仏教の展開』吉川弘文館、2006年8月、2-31頁。ISBN 4-642-02451-4。
- 宍倉, 佐敏編著『必携古典籍・古文書料紙事典』八木書店、2011年。ISBN 978-4-8406-2072-7。
- 笹山晴生、ほか『詳説日本史B』山川出版社、2012年3月27日。