日像

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日像
文永6年8月10日 - 康永元年/興国3年11月13日
1269年9月7日 - 1342年12月11日
肥後房
諡号 日像菩薩(後光厳天皇より)
生地 下総国
没地 山城国
宗派 日蓮宗
寺院 妙顕寺
日蓮日朗
弟子 満蔵(日乗)、大覚
宝塔寺
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日像(にちぞう)は、鎌倉時代日蓮宗。俗姓は平賀氏。幼名は経一丸。下総国の出身。房号は肥後房。肥後阿闍梨と称される。四条門流の祖。

略歴[編集]

建治元年(1275年)、日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となり経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。

永仁元年(1293年)、日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意する。まず日蓮の足跡を辿って佐渡にて法華経を布教した後、北陸七尾に向かう。その船中での法論の結果、石動山の僧・満蔵(日乗)を弟子とした。満蔵により石動山に招かれ法華経を説くも、山上の大衆により満蔵共々追われ、それが羽咋妙成寺の創建に繋がることとなった。

永仁2年(1294年)、上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興大覚寺の僧・大覚らから帰依を受ける。

徳治2年(1307年)、延暦寺東寺仁和寺南禅寺相国寺知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏した。延慶2年(1309年)、赦免され、京都へ戻る。

延慶3年(1310年)、諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けた。延慶4年(1311年)、赦免され、京都へ戻る。1321年(元亨元年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。建武元年(1334年)、後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。

妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし

以後、南朝後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝光厳上皇祈祷も行い、公武の信仰を集めた。

番神[編集]

日蓮宗系の法華経三十番神が守護するという信仰形態(法華神道)があるが、日像が日蓮宗に採り入れたとされる[1]

脚注[編集]

  1. ^ 宮川了篤「平成二十二年一月二十七日 最終講義 日蓮宗修法史概説 (宮川了篤先生退職記念号)」『身延論叢』第16号、身延山大学仏教学会、2011年、15-16頁、doi:10.15054/00000290ISSN 1342-2715 

関連項目[編集]

寺院[編集]

人物[編集]