山本新太郎

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山本 新太郎(やまもと しんたろう、1877年 - 1918年10月4日)は、明治大正期の海軍軍人

生涯[編集]

青森県下北郡田名部町出身[1][2]。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業[3][4]。1904年海軍少主計任官[5]

第十駆逐隊附海軍中主計[6]大湊要港部附海軍中主計[7]宗谷乗組海軍大主計等を経て[8]、1913年海軍経理学校甲種学生教程卒業[9]、海軍主計少監[2]、叙従六位勲四等[10]

1918年軍事視察のためヨーロッパに出張した際、帰国のためリヴァプールから乗船した平野丸Uボートにより撃沈され戦死し[11][2][3][12]、海軍主計中監に特進し、正六位勲三等旭日中綬章を追贈され[13][14]、ロンドン日本人倶楽部で追悼会が開かれた[12]

ウェールズ地方ペンブルックシャー州アングルのセント・メリーズ教会に平野丸殉難者の墓碑が建てられたが、埋葬記録には「身元不明、男性、40歳前後」とあるのみで、山本が埋葬されているかは不明[15][16]

脚注[編集]