呑敵流
呑敵流小具足 どんてきりゅうこぐそく | |
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別名 | 竹内流 |
発生国 | 日本 |
発生年 | 江戸時代 |
創始者 | 𠮷里呑敵齋信武 |
源流 | 竹内流 |
主要技術 | 柔術 |
伝承地 | 土佐 |
呑敵流(どんてきりゅう)とは、𠮷里呑敵齋信武が開いた柔術の流派。
流祖は、竹内流を竹内藤八郎久直から学んだ𠮷里藤右衛門呑敵齋信武である。板垣退助が学んだことで知られる。
信武までの伝系[編集]
- 初代:竹内中務太夫久盛
- 二代:竹内常陸介久勝(久盛次男)
- 三代:竹内加賀介久吉(久勝長男)
- 四代:竹内藤一郎久次(久吉三男)
- 五代:竹内藤一郎久政(久次五男)
- 六代:竹内藤九郎久蔵(久政門弟)
- 七代:竹内藤葵斎久陳(久蔵嫡子)
- 八代:竹内藤八郎久直(久陳嫡子)
- 九代:吉里呑敵斎菅原信武(久直門弟)
竹内流捕手腰廻小具足術相伝系図[編集]
竹内中務太夫 久盛 | 竹内常陸介 久勝 | 竹内加賀介 久吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内藤一郎 久次 | 竹内藤一郎 久政 | 竹内藤九郎 久蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
難波一甫斎 久永 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内藤葵齋 久陳 | 竹内藤八郎 久直 | 𠮷里呑敵齋 菅原信武 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辻宦太夫 後温 | 德永傳之助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
馬渕嘉平 源正保 | 本山団蔵 源重隆 | 板垣退助 源正形 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
横田源作 | 山脇三太郎 | 永野良𠮷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
櫻井甚五 右衛門尚容 | 嶋田隼人介 世直 | 中山準助 正義 | 伊藤祐次郎 祐騰 | 平木宗齋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石原庄兵衛 武昌 | 渡邉荒四郎 | 三ッ柗勘兵衛 勝満 | 正木鋿五郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
増田忠次 | 赤木六太夫 長定 | 白神伊輔 正則 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(出典)『𠮷里呑敵齋信武門下竹内流組討術相傳系譜』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編
板垣退助と呑敵流[編集]
板垣退助は、呑敵流を土佐藩士の本山団蔵重隆から学ぶ。板垣が本山団蔵から学んだ呑敵流は馬渕嘉平によって土佐藩に伝系されたものである。
岐阜事件の際は、呑敵流の秘術の臂割(ひじわり、肘鉄砲の事)で相原に反撃した[1]。 これにより板垣退助は、本山団蔵から呑敵流の免許皆伝を授与された。
板垣岐阜遭難事件[編集]
板垣退助は、相原尚褧に襲われた際、咄嗟に呑敵流の当身で反撃をした。この時、敵の心臓を狙って肘で当身を入れたが力を入れ過ぎた為に下にずれて腹部に当たった。後の取り調べで相原尚褧が警察に脾腹が充血して痛みに耐えられん言ったので、調べて見ると脾腹が黒いアザになっていたとされる。
岐阜事件の後、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈物をして、この事を話したところ、本山は板垣に教えた武術が実地に功を奏した事を喜び呑敵流の皆伝免状を授けた。
「たちまち、一壮漢あり。『国賊』と叫びつつ、右方の横合より躍り来るや、短刀を閃かして板垣の胸間を刺す。板垣はこの時、赤手単身、洋杖すらも携えず。賊を見て大喝、叱していわく、『咄(こら) 何をするか』と。肘を以て強く敵の心臓を打ちしも、あまりに力をいれしため、下がりて腹部に當る。敵は蹣跚として飛び退きさらに身を転回して正面より突撃し来る」
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『yawara―知られざる日本柔術の世界』山田實[要ページ番号]
- 『朝野新聞』明治15年4月18日
- 『朝日新聞』明治15年4月22日土曜日 第948号