副島廣之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そえじま ひろゆき

副島 廣之
生誕 1913年
日本の旗 日本 広島県広島市
死没 没年不詳
出身校 國學院大學神道部
職業 神職政治活動家
肩書き 明治神宮権宮司
日本を守る会初代事務総長
日本を守る国民会議初代事務総長
日本会議代表委員
テンプレートを表示

副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年[1] - 没年不詳)は、昭和・平成時代の神職政治活動家明治神宮権宮司。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両団体の初代事務総長を務め、日本会議に連なる保守運動に挺身した[1][2]

来歴[編集]

広島県広島市生まれ。佐賀藩須古鍋島家の家臣の副島家に生まれる。父親の副島知一は副島家第13代に当たる[3]。1934年、國學院大學神道部を卒業した[1]

熊野那智大社坐摩神社に勤めたのち、1940年に明治神宮に入った。1945年4月の空襲で本殿が焼失すると、戦後、御社殿の戦災復興募金活動や御社殿の復興に尽力したとされる。明治神宮の権宮司をつとめるとともに明治神宮崇敬会の事務局長、理事長、副会長として組織の発展に貢献した[1][2]

1974年4月2日、朝比奈宗源円覚寺住職)、富岡盛彦富岡八幡宮宮司)、谷口雅春生長の家総裁)らが中心となり、日本会議の源流の一つとなる「日本を守る会」が結成された[4][5]。事務所は明治神宮会館に設置され[6]、副島は事務総長に就任した[1]。同年5月4日、朝比奈、富岡などの代表委員、事務総長の副島らは首相官邸で田中角栄首相と面会。愛国心の昂揚、天皇の尊厳護持、国歌・国旗・元号の法制化、宗教的情操を基本にした道徳教育の振興、教育の正常化に関する要望書を提出した[7]

1978年7月18日に「元号法制化実現国民会議」が結成される際、副島や小田村寅二郎らは、日本青年協議会椛島有三に事務局長を依頼した[8]

1981年10月27日、元号法制化実現国民会議が改組され「日本を守る国民会議」が発足すると[9]、副島は事務総長に就任した[1]

そのほか、世界宗教者倫理会議事務総長、世界連邦日本宗教委員会議長、文部省宗教法人審議会委員、日本会議代表委員[10]などを務めた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『勤王の先駆者 横尾紫洋―その生涯と漢詩』著者紹介”. 紀伊國屋書店. 2024年5月9日閲覧。
  2. ^ a b 副島廣之”. 明治神宮歴史データベース. 2024年5月9日閲覧。
  3. ^ 副島廣之「新年の床飾りと屠蘇行事」 『儀礼文化』第16号、儀礼文化学会、1991年9月25日。
  4. ^ 澤渡盛房「立派だった先賢の一言 日本を守る会誕生記」 『祖国と青年』1985年8月号、日本青年協議会、41-43頁。
  5. ^ 成澤 2015, pp. 89–90.
  6. ^ 藤生 2018, p. 139.
  7. ^ 『右翼・民族派事典』 1976, p. 123.
  8. ^ 『戦後に刻む我らの道統』中巻「元号法はいかに成立したか」
  9. ^ 『「政治」の風景』 1982, pp. 125–144.
  10. ^ 役員名簿(平成22年8月1日現在)”. 日本会議. 2010年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 成澤宗男「日本会議のルーツと国家神道―価値同一性強要の戦後的変容に見る神道勢力の陥穽」『「開戦前夜」のファシズムに抗して』かもがわ出版、2015年10月。ISBN 978-4-7803-0807-5 
  • 藤生明『徹底検証 神社本庁 ―その起源から内紛、保守運動まで』筑摩書房ちくま新書〉、2018年10月4日。ISBN 978-4480071767 
  • 社会問題研究会 編『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年8月25日。 
  • 朝日新聞社会部『「政治」の風景』すずさわ書店、1982年12月15日。 

関連項目[編集]