三好生勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三好 生勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 寛永8年(1631年
別名 通称:孫九郎[1]、助兵衛[1]
善元(ぜんげん)[2]
主君 織田信長豊臣秀吉黒田長政浅野長晟
福岡藩広島藩
氏族 多羅尾氏三好氏
父母 父:多羅尾綱知、母:三好義継
義父:三好義継
養父:三好宗渭
兄弟 多羅尾光信[2]、松永久三郎[2]生勝
生高、七郎右衛門、土橋重俊室、他
テンプレートを表示

三好 生勝(みよし なりかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将三好氏宗家の継承者とされる[3]

生涯[編集]

広島藩士の三好氏に伝わる系図によると[4]、生勝は若江三人衆の1人である多羅尾綱知と三好宗家当主である三好義継の妹との間に生まれたという[5]三好三人衆の1人である三好宗渭に養育され、三好義継の名跡を継いだとされる[4]。義継の名跡を継いだことは織田信長に認められており、河内国で5,490石を領している[4]

史料上の初出は、天正7年(1579年)10月の津田宗及の茶会の記録で、生勝は既に三好姓を名乗っていた[6]。この頃行われていた大坂本願寺との戦いでは生勝も出陣を命じられ[7]、負傷しながらも軍功を挙げて、信長から感状と甲冑・陣羽織・短刀を与えられた[4]

天正20年(1592年)に始まる文禄の役の際は、肥前名護屋城に在陣した[8]。その後、豊臣秀吉の正室である北政所の付属となり[8]関ヶ原の戦い後は豊臣秀頼に属した[9]。後に福岡藩主・黒田長政に仕え、慶長14年(1609年)に2,000石を与えられた[10]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では長政の嫡男・忠之に従い[11]、河内国の案内人として黒田軍の先陣を務めたという[9]

元和7年(1621年)、生勝は家督を長男の生高に譲り、天龍寺で隠居するため京都に向かったが、広島藩主の浅野長晟に誘われ、2,000石で仕えた[12]。生勝の息子2人も同時に広島藩に仕え、それぞれ500石を知行した[13]

寛永8年(1631年)、生勝は死去した[14]

子女[編集]

生勝の長男・生高は福岡藩に仕えていたが、寛永15年(1638年)に広島藩へと移った[13]。寛永16年(1639年)、2代藩主・浅野光晟より300石を与えられている[15]。後年、生高の系統の三好家には5代藩主・浅野吉長の弟である[11]長賢の子の房高が養子として入っており、房高は1,000石の年寄役を務めた[16]

生勝の二男・七郎右衛門は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方として戦死した[17]

生勝の四女は摂津平野の有力者・土橋九郎右衛門重俊の後妻となっている[17][18]。平野は生勝が付属させられた北政所の所領であった[19]。土橋重俊の前妻は道頓堀を開削したことで知られる成安道頓の娘である[17][18]

脚注[編集]

  1. ^ a b 広島県立文書館 2015, p. 2.
  2. ^ a b c 嶋中佳輝 著「多羅尾綱知―河内北部を統治する若江三人衆筆頭」、天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年、180–190頁。ISBN 978-4-86403-447-0 
  3. ^ 広島県立文書館 2015, pp. 1, 3.
  4. ^ a b c d 広島県立文書館 2015, p. 3.
  5. ^ 広島県立文書館 2015, p. 3; 天野 2021, p. 168.
  6. ^ 天野 2021, p. 168.
  7. ^ 広島県立文書館 2015, p. 3; 天野 2021, p. 169.
  8. ^ a b 広島県立文書館 2015, p. 4; 天野 2021, p. 181.
  9. ^ a b 広島県立文書館 2015, p. 4.
  10. ^ 広島県立文書館 2015, p. 4; 天野 2021, p. 185.
  11. ^ a b 天野 2021, p. 185.
  12. ^ 広島県立文書館 2015, p. 5; 天野 2021, p. 185.
  13. ^ a b 広島県立文書館 2015, p. 5.
  14. ^ 広島県立文書館 2015, p. 2; 天野 2021, p. 185.
  15. ^ 広島県立文書館 2015, pp. 5–6; 天野 2021, p. 185.
  16. ^ 広島県立文書館 2015, p. 5; 天野 2021, pp. 185–186.
  17. ^ a b c 柏木輝久「三好七郎右衛門」『大坂の陣豊臣方人物事典』北川央 監修(2版)、宮帯出版社、2018年、649頁。ISBN 978-4-8016-0007-2 
  18. ^ a b 牧英正『道頓堀裁判』岩波書店岩波新書〉、1981年、97頁。全国書誌番号:82003911 
  19. ^ 天野 2021, p. 181.

参考文献[編集]