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ノート:天動説

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円の個数[編集]

2006年6月24日 (土) 04:18に大幅改稿しました。このとき省いた内容の中に、次の記述があります。

「アリストテレスは、5つの惑星と太陽、月の7つの天体を動かすのに、27個の円があると考えた。プトレマイオスは円を34個に増やし、後の天文学者が円をさらにつけ加えた。観測精度が上がり、細かい運動が次々に見つかったためである。最終的には16世紀までに数十個もの円が使用されることになったという。しかし、その円の個数がなにゆえにその個数でなければならないのかを明確に答えることはできなかった。」

なぜ、この段落を省いたかというと、34個という数は1514年頃コペルニクスが手稿『コメンタリオス』の中で自説の円の数に言及したもので、プトレマイオスのものではありませんから、明らかな間違いです。しからばプトレマイオスが使った円の数はいくらか? コペルニクスはプトレマイオスにある5惑星の離心円を地球の公転軌道に置き換えたので、5つ少なくなったはずだと考えるとプトレマイオスの円は39個だったということになります。いっぽう、プトレマイオスのエカントを除くためにコペルニクスは小周転円を導入したので、5惑星と地球、月とで計7つ追加。差引きプトレマイオスより2個多いとすれば、プトレマイオスが使った円の数は32個ということになります。これらの推論は間接的なもので、しかも、コペルニクスが1514年ごろに34個を使っていたとしても、『天球の回転について』を脱稿した1543年にはその数が変わっているかもしれません。私には確かなことが分からないので、とりあえずこの記述は削除しました。識者のご指摘をお待ちします。 Shinobar 2006年6月25日 (日) 09:10 (UTC)[返信]

高橋憲一訳・解説『コペルニクス・天球回転論』みすず書房(1993年)の解説から円の個数を拾いました。

  1. エウドクソス(紀元前4世紀) 27
  2. カリッポス(紀元前4世紀) 34
  3. アリストテレス(紀元前4世紀) 56
  4. プトレマイオス(2世紀) 43
  5. コペルニクス(1514年ごろ) 35
  6. アミーコ(1536年) 107
  7. フラカストロ(1538年) 79
  8. コペルニクス(1543年) 49

ただし、これらの数え方はいろいろいろあって、アリストテレスのうち22個は精度を上げるためのものではないし、プトレマイオスで各惑星の年周運動の計算に必要なだけを数えると34です。コペルニクスはやはり『コメンタリオス』(動かない恒星球を除けば34。赤緯方向に動かすための4つを加えると38)から『天球の回転について』までに14個増やしています。アミーコとフラカストロは、べらぼうに多いですが、プトレマイオスと体系が違う(同心球)ので、精度は上がらず、これにもとづく星表は作られていないなど、実用的には無視されていたようです。代表的な星表が作られたもので言えば、(4)にもとづくアルフォンソ星表が34、(8)にもとづくプロイセン星表が48といったところでしょうか。Shinobar 2006年6月28日 (水) 14:57 (UTC) (『コメンタリオス』の円の数を修正)Shinobar 2006年6月29日 (木) 02:22 (UTC)[返信]

「最終的には16世紀までに数十個もの円が使用されることになったという。」という部分について、状況が分かりました。1949年にハーバート・バターフィールドが論文『近代科学の誕生』の中で、コペルニクスの仮説では「天球の総数が80から34に減っている」と述べたために、一時これが通説となったようです。コペルニクスが学んだ16世紀のパドヴァ大学の学派の中には同心天球モデルにもとづいて、円を増やした学者も居ました。しかし、当時信頼を受けており、コペルニクスも持っていた『アルフォンソ表』は、13世紀に作成されたものです。この『アルフォンソ表』も、1532年シュテフラーの『天体暦』も、使っていた円の数は2世紀のプトレマイオスの(計算に必要な個数だけを挙げると)34個から増減していないことを、1973年、ギンガリッチが再計算により示しました。(参考『誰も読まなかったコペルニクス』p88)Shinobar 2006年7月3日 (月) 09:44 (UTC)[返信]

天動説とキリスト教会[編集]

2006年6月22日 (木) 15:04 の加筆で、「キリスト教界の強力な援護により約1500年間支持された。」とありますが、天動説が生き延びたのは、対抗する有力な説が現れなかったからで、それを16世紀コペルニクスに採り、終焉を17世紀に採れば、キリスト教会が関与するのはたかだか100年でしかありません。あるいはコペルニクスの地動説が教会で問題になるのはガリレオ裁判のときで、1616年ごろから1633年。ケプラーの説にもとづく『ルドルフ星表』が作られるのが1627年で,これは精度が良かったので急速に普及したそうです。そうするとキリスト教会(カトリック教会)の抵抗が有効だったのは、1500年のうちの、せいぜい20年に満たない期間ということになります。Shinobar 2006年6月25日 (日) 09:35 (UTC)[返信]

それに、プトレマイオスの天動説について言えば、8世紀からの数百年はイスラム教圏で保持されていたのであり、カトリック教会がこれを採り入れるのは13世紀ごろのスコラ学からです。とりあえずこの1文は削除を提案します。カトリック教会との関係を記述するとすれば、概要の最終段落に、「17世紀、カトリック教会によるガリレオ裁判において、天動説を否定する地動説は物議となった。」くらいの文章を追加するかです。Shinobar 2006年7月3日 (月) 10:37 (UTC)[返信]

2006年7月17日の改稿で「13世紀から17世紀頃までは、ローマ教会の公認の世界観だった」というのはオッケーなのですが、プトレマイオス後の展開のところに「当初、ローマ教会は、これらの研究を禁止したが」という記述が追加されました。この「当初」とは、いつごろの話でしょうか? 4世紀末〜5世紀の高名な神学者アウグスティヌスはギリシア哲学に通じていましたし、それは13世紀のスコラ学にも継承されています。Shinobar 2006年7月17日 (月) 05:52 (UTC)[返信]

天動説で記述する労力[編集]

「現代の天動説」の節に「べらぼうな労力を要することになるが、その労力さえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能なのである。」という記述があります。

天動説で記述することは、地動説に比べそれほどたいへんなのでしょうか?

たとえば地球から見える金星の方角を算出しようとするとき、

  1. コペルニクス体系だと、順番はどちらでも良いですが、まず太陽を中心軸にして地球がその軌道上のどこに居るかを計算し、次に金星が軌道上のどこに居るかを計算し、最後にその地球から金星を結ぶ線の方角を計算します。
  2. プトレマイオス体系だと、まず太陽の方向を計算します。次に金星の離心円の回転角はこれと同じなのでそれを利用し、あとは周転円以降を計算して金星の位置を算出します。最後に不動の地球からその金星へ結ぶ線の方角を計算します。

使う言葉が少し違いますが、実は同じことをしています。地動説の記事には「コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。」とあります。

それぞれの計算にたくさんの小周転円があって、計算がたいへんだろうと想像するのは、軌道をどう近似するかの問題であって、天動説か地動説かという問題ではありません。楕円で近似すればもっと単純だというのもそのひとつです。天動説でもそれぞれを楕円で近似することはできます。地球軌道が複雑な理由のひとつに月の影響がありますが、これは楕円で近似しても残る別の問題ですし、それをニュートンで説明するのは、説明がすっきりするだけで、計算の手間が減るわけではありません。Shinobar 2006年6月27日 (火) 05:04 (UTC)[返信]

たしかにねぇ。単に、「地動説」(その中身が何であれ)と数学的におなじ計算を地球を固定した座標系でやれば、それはそれで一つの天動説の体系になるだろうから、言いたいことはわかります。まあ、おなじ精度を目指すなら実際の計算は多分仮定が少なくてすむであろう「地動説」のほうが何かと「簡単」では有ろうかと思いますが。あと、天動説というものをそう捕らえるのが一般的かどうかというあたりに争点があるのかも。まあ、天動説というものをあくまで小周転円を無限に連ねる方法だと規定するのも論者の勝手といえば勝手だし、アインシュタインの相対性理論の世界を、天動説と地動説のどちらかとみなすのはもうぜんぜんナンセンスだろうし…。まずは、何を争点にするのかを決めないと、話がすすまなそうだ。yhr 2006年6月27日 (火) 14:26 (UTC)[返信]

該当段落は「現代の」なので、その地動説はケプラーのもので、ニュートンで裏付けられたそれを指しているのでしょう。これに対し「天動説」の言葉で呼ばれているのは、中世ヨーロッパが持っていた宇宙観、アリストテレスとプトレマイオスの合成によるものを指しているようです。この宇宙観は、次のもので構成されています。そのうち天動説のコアは1だが、該当段落はこのうち「べらぼうな労力」は5の問題、節の最後にある「物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。」は2の問題について議論しているようです。

  1. 地球は宇宙の中心にあり、動かない。代わりに天が東から西へ日周運動、西から東へ年周運動をしている。
  2. 地球を中心に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星球がこの順に層を成している。
  3. 恒星は恒星球に貼りついているか、穴である。
  4. 月から上は天の世界であり、それより下の世界とは隔絶している。
  5. 太陽、月を含む各惑星の年周運動を離心円、エカント、周転円で近似した。

いっぽう、教育の問題として、地球の上に立つ現代の子供たちが空を見上げると、太陽が地球の周りを回っているように見えることをどう説明するかという問題を論じています。その問題に、特定の時代の特定の地域で信じられていた天動説を取り上げて、それをこき降ろすことにどんな意味があるのでしょうか? 天動説は、さまざまな文化でいろいろに説明されています。Shinobar 2006年6月28日 (水) 04:39 (UTC)[返信]

とりあえず、教育の問題は別扱いのほうが良いでしょう。「現代の天動説」の節はざっくり削って、その代わり天動説のいろいろな類型を説明する節と、理科教育の問題について触れる節を新たに作るのが良いですかね。あまり突っ込んだ話になると僕には手におえないので、Portal:物理学Portal:天文学でちょっとここを見てもらえるように告知を出してみます。yhr 2006年6月28日 (水) 12:24 (UTC)[返信]

ありがとうございます。私としては、「べらぼうな労力」「物理的(力学的)な完全破綻」の文を取れば、この段落の記述は問題ないように思えます。 畳み掛けるようですが、次の段落の「地球中心説としての天動説は誤りであった」と言い切って良いのでしょうか? 地球が中心だと思っていたら、太陽が中心だった。かと思えば銀河系の中心は別のところにあって、その銀河系は宇宙のほんの一部でしかない。私はこの方面に暗いのですが、現在の科学の最先端の理解として、宇宙の中心というのは、どこかにあるのでしょうか? Shinobar 2006年6月28日 (水) 14:10 (UTC)[返信]

「べらぼうな労力」は程度問題なのでおいておくとしても、「物理的(力学的)な完全破綻」は事実としか言い様がありません。いわゆる「天動説」を根拠付けるような「力学法則」を含む「物理学体系」が構築されたことは一度も無いはずですし、未来においてもそのような「物理学体系」を構築することは出来ないはずです。「天動説」はその起源から今日にいたるまで、一度たりとも物理学上(力学上)の理論であったことは無いのです。
宇宙に特定の中心はない、あるいは中心を定義することは出来ない、というのが現在の宇宙論の立場から見た定説だと思います。yhr 2006年6月28日 (水) 17:32 (UTC)[返信]

そうでしょう。他に中心が無いのに、地球中心説を笑うというのがしっくり来ないんです。この段落には「宇宙のいずこかに中心を置くのは誤りである。」との文言を入れないと分かりにくいのではと。

「天動説」を根拠付けるような「力学法則」を含む「物理学体系」が構築されたことは一度も無いということは、そのとおりです。しかし、ティコの太陽系で、各軌道を楕円にしたら、力学的には何の問題も無いはず。…恒星との関係で、まずいですかね? Shinobar 2006年6月28日 (水) 23:37 (UTC)[返信]

Shinobar さんの仰る通り、ティコのモデルだと恒星との関係、特に光行差や年周視差の原因を説明できない点が致命的な問題になります。最終的に天動説に引導を渡したのはニュートン力学の確立だけでなく、この二つが16、17世紀に観測的に発見されたことが大きいという点も書くべきだろうと思います(英語版には書かれていますね)。また、宇宙に特定の中心が存在しないというのはその通りですが、「太陽系の重心」は観測する系によらず一意に決まり、太陽の内部にあります(太陽の正確な中心からはわずかにずれていますが)。ですので、地動説には「太陽系の重心系から見た描像」であるという特別な意味があることも忘れてはいけないでしょう。Hina 2006年6月29日 (木) 05:33 (UTC)[返信]

天動説はあくまでも地球から星を観測したときにその星が天球上でどこに位置するかを予言するための体系です。まあそれすらもHinaさんのいうように16世紀の時点ですでに破綻しているわけですが、こと、現代的な意味での力学上の問題に言及するならば、「なぜ星がそのような運動をするのか」を説明する必要があります。地球が中心であるというのなら、地球が中心にあって動かない理由を説明しなければなりませんが、それを力学法則を使って行うのは不可能といってよいでしょう。数学的にはどこを固定して計算してもおなじ事ですが、物理学的には「地球が止まっている」というのなら「何に対して止まっているのか」「どうして止まっていることができるのか」を説明しなければなりません。yhr 2006年6月29日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

本筋ではない細かいところですが、光行差の発見は1727年、年周視差は1838年、フーコーの振子が1851年で、これらの観測的発見は18世紀から19世紀にかけてということになります。Shinobar 2006年6月30日 (金) 13:32 (UTC)[返信]
さらに余談ですが、ティコの太陽系に楕円軌道を適用するという発想は私だけの思い付きではないようです。1798年の寛政暦が、そういう宇宙像を描いているようです。
「太陽系の重心」というのは凄い発想ながら、なるほどと思いました。そこまでゆかずとも、2体の回転はどこを基準にとっても良いが、2体の重心を中心に採るのが自然だというのは頷けます。そこで、現記述の「労力」は残し、「べらぼう」を取ることを提案します。すなわち、「べらぼうな労力を要することになるが、その」までを削除。「労力さえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能なのである。」とする。Shinobar 2006年7月1日 (土) 00:06 (UTC)[返信]
「天体の運動を記述する」はちょっとまずい気がします。「天体の位置関係を計算する」くらいの表現ではだめですかね。211.13.143.210 2006年7月1日 (土) 16:14 (UTC)[返信]
どうまずいのか、もう少し説明いただかないと、私には分かりません。Shinobar 2006年7月3日 (月) 10:20 (UTC)[返信]

「べらぼう」の由来が分かりました。1949年にハーバート・バターフィールドが論文『近代科学の誕生』の中で、コペルニクスの仮説では「天球の総数が80から34に減っている」として、プトレマイオスの理論に対し「計算と予測という点ではコペルニクスの理論の方が簡便」と、述べたためです。これが誤りであることは、後の研究で明らかになりました。このノートの上のほうの「円の個数」のところで述べたとおりです。Shinobar 2006年7月3日 (月) 10:20 (UTC)[返信]


「現代の天動説」なのにプトレマイオス体系とコペルニクス体系の対比を問題にするのですか?なんか変です。まあプトレマイオス体系=天動説なら、そもそも実際の「天体の運動」なんかは記述していないうえに「天体の位置関係を計算」しているわけでもないので、まるっきり書き換えないといけなくなりますね。というか、議論をきちんと行うためには、いちど「現代の天動説」とはなんなのかをはっきりさせておかないといけないでしょう。yhr 2006年7月3日 (月) 14:04 (UTC)[返信]

そうですね。次にMaris stellaさんが指摘されているように、記事全体に「天動説」をどう定義するか考え直さねばならないかもしれません。概要冒頭で「プトレマイオス体系=天動説」としているから、記者にバターフィールドの科学革命論が頭にあって、ここに「べらぼう」という言葉が入ったのではないかと想像したまでです。 Shinobar 2006年7月3日 (月) 18:24 (UTC)[返信]

歴史的・文化的な観点[編集]

この記事は「秀逸記事」のようですが、何が秀逸なのかよく分かりません。それはともかく、おかしく感じるのは、「天動説」とはそもそも何か、という歴史的・文化的な定義・脈絡が欠如しているというか、自明のことだとして省いているように思えます(省いているということにも気づいていないのだと思います)。「異端」の概念で、異端と正統は補完関係にあり、客観的には、異端・正統は決まらない、何が決めるかというと、政治や経済や軍事や、ある主張の「支持勢力」の優越性だと述べています。異端説とされる主張・説・理論・宗教・教派について記述する場合は、その理論・説・派の立場に立って、まず、それがどういうものかを述べ、それに対し、この説を異端とする、または間違っているという説の主張や、根拠を述べるものです。科学理論の場合は、どちらが科学的に正しかったかという歴史の結果が来ます。

天動説」というのは、そもそも何なのか。現在の定義文だと、「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと」だとなっていますが、天体観測は、古代ギリシアだけでなく、古代エジプト、古代インド、古代中国、古代バビロニア、マヤ・アステカなどでも行われており、マヤ・アステカは知りませんが、その他のどこの文化でも、上のような「すべての天体が地球のまわりを公転している」という「考え=学説」があったはずです。古い版だと、定義部分がもう少し詳しいようですが、しかし、「プトレマイオスが体系化した学説」というのは本当なのかという疑問が起こります。「体系化」の意味が問題ですが、プトレマイオス以前の人が唱えていた、説=意見は、天動説ではないということなのでしょうか。また、インドや中国でも天動説だと思いますが、これらは天動説とは呼ばないのか。

コペルニクスとかの話で出てくる西欧の天動説と地動説の話は、基本的には、「古代ギリシアの天文学理論」→「イスラム科学での天文学理論」→「西欧の11世紀から14,15世紀頃までのイスラム科学の学習と議論」→「西欧の天文学議論論争」となっているはずです。「古代ギリシア」の前に、エジプトやバビロニアの天文学も関係するはずです。科学はすべて、西欧において、15世紀頃にどういう訳か、古代ギリシアなどの思想を修正して原型ができ、そこからは西欧内部の議論や研究で発展してきて、西欧のみが精密な科学を築いた、という話があるようですが、これは本当のことなのか、という疑問があります。

古代インドにも古代中国にも、唯物論者や懐疑論者が存在し、仏教などは、「外道」とか言っていますが、物質宇宙という考え方の起源を説明すると、出てくるのは通常、古代ギリシアの自然哲学者たちのアルケー、デモクリトスのアトモス(原子)などです。「天動説」とか「地動説」とかいう概念乃至術語は誰が言い出したのか、一体何が定義なのか、西欧でのコペルニクスやガリレオなどを中心にした話だけに限定されているように思えます。その限定は構いませんが、その場合、他の諸文化での「天動説」はどうなるのか。(話が少しずれているように思えるかも知れませんが、西欧において近代科学が成立した……または、したように見える……ことは、どういう意味があるのか、西欧中心観点ではなく、別の文化観点から見ると、違う問題が出てくるのではないかということです)。--Maris stella 2006年7月3日 (月) 15:45 (UTC)[返信]

同感です。「天動説」一般を最初に定義しながら、概要以降は「プトレマイオスの天動説」で貫かれているように思います。全面的に解説できるのが良いが、できなければ、ここでは「プトレマイオスの天動説」だけを解説するという断り書きを入れるか…。「プトレマイオスの天動説」に限っても、「西欧において、15世紀頃に…」に近い見方に偏っているように思います。天文学史の記事に、英語版から引き写したか、金星の発見は紀元前5世紀ピュタゴラスによるという記述があって、失笑してしまいましたが、何でも古代ギリシアという謬見はときどきありますね。Shinobar 2006年7月3日 (月) 18:45 (UTC)[返信]
一案ですが、冒頭定義を「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。地動説と対置し、西欧の科学史を語る文脈では、特にプトレマイオスの天動説を言う。本稿ではこれについて解説する。」とするのはいかがでしょうか? 「地動説」についても「コペルニクスが唱え、ケプラーに引き継がれた」と限定しなければならないかもしれませんが。Shinobar 2006年7月4日 (火) 20:41 (UTC)[返信]

フランス革命の記事に、フランス革命が明治維新に与えた役割を書かなくても誰も文句は言わないでしょう。もちろん、何の関係もないとはいいません。しかし、そういう研究がなされていなければ、そして、それが多くの研究者に受け入れられなければ、百科事典に書くのは早すぎるか意味がないでしょう。この記事に研究の進んだ内容がすべて盛り込まれているとは言いませんが、研究がなされていないかあまり受け入れられていない視点について、そういう視点がないというのは方向違いの苦情であると認識します。

天動説に関して言えば、そもそも、地球が丸い、という概念が存在しない文明では、天動説という宇宙観も出てきません。少なくとも、「地球」が静止している、ということを認識していないと、天動説とはならないでしょう。その意味では、回転天球などを用いたアリストテレスなどの説は、概念としては天動説の中に当然入ります。ただ、それは記事内に書いてあるのでわざわざ列挙する必要性は感じません。

メソポタミア文明では恒星や惑星の観測記録が多く出てきますが、彼らの持っていた宇宙観がどうであったのか、そこまで詳しいことが書いてある粘土板は出てこないか、解析が済んでいないようです。また、アリストテレス的な、地球が動くなら地上のものはすべて吹き飛ばされる、というような哲学が導入されていない場合には、地面が動く体系を考える可能性も十分にありえます。ギリシャ以前の文明では、世界は半球状にとらえられることが多かったようです。ただ、そういう話は地動説の記事ではなく、宇宙論とかの記事で行うべきでしょう。平らな地面(地球ではなく)の上半分が半円状の天球になっていて、そこに張り付いた星が1日1回転するという宇宙観を持っていた文明はいくつかあるようですが、その段階では通常は天動説とは言わないようです。それらの文明がどれくらい星を重要視していたかによっても、天動説が生まれるかどうかは変わるでしょう。夜を越えて航海をひんぱんに行っていた文明のほうが、地球が丸いという概念については受け入れやすいようです。(水平線は丸いし、遠くの船は帆先から見え始めますので)

その後、プトレマイオス体系がアラビアに持ち込まれ、さらに中国にも持ち込まれてそれぞれ発展しますが、それぞれの文明が「地球が丸い」「天球があってそれが動く」という概念や認識を受け入れるときに、それぞれの文明の体系との非互換が問題になって、それが大きな政変とかに結びついたのならそれはそれで書く必要はあるでしょうが、そういうものもないようです。Modeha 2006年7月5日 (水) 13:02 (UTC)[返信]

特に意見もないようなので、そのような形で本文に繰り入れました。Modeha 2006年7月13日 (木) 14:20 (UTC)[返信]

天動説とは、地動説に対する言葉であって、その地動説とはコペルニクスのものであるという立場からは、それで良いでしょう。しかし、「古代ギリシア・古代ローマ文明以外では、天動説に類する宇宙観は生まれないか、発展しなかった。」というのは、無茶苦茶でしょう。「球状の「地球」が世界の真ん中に浮かんでいる」のを(この記事で言う)天動説と定義してのことです。なぜ球状でなければ天動説と言えないのか、大地が固定されず浮かんでいなければならないのか、解せません。それを是認したとしても、6世紀インドのアリヤバータ(Aryabhata)は、そういう地動説を唱えています。彼の書は8世紀にはアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されています。プトレマイオスの天動説→コペルニクスの地動説の文脈で語るにせよ、少なくともインドは無視できせん。Shinobar 2006年7月13日 (木) 23:58 (UTC)[返信]

そう言われましても、「天動説」という語は元々日本語にあった概念ではなく、geocentric modelの訳です。本来の意味を直訳すると、「地球中心説」になります(それは本文中に言及があります)。従って、「地球」という概念が存在しない文明で天動説があるという主張自体がおかしなことになります。いつかの時代の日本の学者がgeocentric modelに「天動説」という訳語をあてたためにかようなことになっているわけで、それは私や他のこの記事の執筆者の責任ではありません。それなら「地球中心説」に移動すればよいと思われるかもしれませんが、いったん固定化した用語を急に変えるのは困難です。確かに、「地球中心説」という語を好んで使う研究者とかはいることはいますが、それでもたいていの場合、「地球中心説(天動説)」などと注釈付きです。私はgoogleヒット数とかはあまり気にしないほうなのですが、やってみると、2桁ほど「天動説」のほうが多くなっています。さすがにこれだけ圧倒的な差があると、「記事名は地球中心説」であるべき、という主張を行うわけにもいきません。また、この語は、天文学だけの用語ではなく、哲学の用語でもあるため、どちらかの分野の都合で勝手に変えるわけにもいきません。interlinkをごらんになれば分かるとおり、たとえば英語版では、天動説は半球状のドーム型の世界観とははっきり区別されると明示さえしてあります。その言及が日本語版に足りなかったのは確かなので、さっそく直しておきます。半球状の世界観は、「原始天動モデル」とかそういう言い方をする研究者もいるようですが、確かな使用例が文献ですぐに見つからなかったので、見つけてから名前を書くことにします。

アリヤバータについては、彼がギリシアの天文学にふれたことはほぼ明白です。少なくとも、英語版にはそれについての言及があります。ギリシアで天動説が生まれてから、アリヤバータの時代まで500年以上あります。プトレマイオスから数えても400年です。逆に、インドの最も古いインド数字の碑文の年から、西ヨーロッパの文献でインド数字(アラビア数字)が登場するまで、400年はかかってません。アリヤバータの時代、西ヨーロッパとインドには(アラビアという中間地点があったにしろ)間接的に接触があったのだから、アリヤバータへの言及は、「恐らく、ギリシアの天文学に影響されて」と言及すべきです。ので、さっそく直しておきます。これも英語版に言及があるので今すぐ直すのに問題はないでしょう。Modeha 2006年7月14日 (金) 11:20 (UTC)[返信]

球状の地球が浮かんでいる?[編集]

天動説でも地球中心説でも構いませんが、「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とする合理的理由がありません。「コペルニクスが批判の対象として選んだ説」とでも定義するほうが、よっぽど正直です。その決め付けには不服ながら、定義と概要の矛盾をとりあえず解消するために、定義を「天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。 時代と地域により、さまざまな宇宙観が存在したが、16世紀のヨーロッパでコペルニクスが提唱した地動説に対置して、とくにプトレマイオスの天動説を指すことが多い。本記事ではこれを中心に解説する。」と、書き変えました。Shinobar 2006年7月15日 (土) 01:27 (UTC)[返信]

合理的理由なんか無くても、慣習的にそう扱われているのならしかたがないじゃないですか。とはいっても、元が訳語だからといって日本語化したときに付加的な意味が付け加わってはいけないという話も無いので、「天動説」という日本語の使い方として、「地球」概念を含まない考え方がある程度広まっているという事を示す例があるのなら、それを具体的に提示したうえで、そのような考え方に触れるのも間違いとはいえないと思いますが。yhr 2006年7月15日 (土) 09:17 (UTC)[返信]

そうはいっても、たとえば『世界大百科事典』第2版でも、地球が中心というのが前提の定義になっています。Shinobar氏が持っているはずの、高橋訳『天球回転論』も同じです。123ページと125ページをごらんください。Shinobar説は、根拠の提示がありません。天動説が、半球状で地面が平らという世界観も含むという定義を行った日本語使用者の職業天文学者が例示されない場合、元の(私の)記述に戻します。Modeha 2006年7月16日 (日) 10:28 (UTC)[返信]

天動説は「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とするのが、「慣習的」かどうかです。高橋、p123は「地球が宇宙の中心に静止し、天が動く」という考えを天動説としています。「天動説では地球を平らだとしている」という「誤解」を挙げ、「天動説でも地球は丸いと前提していた」と指摘しています。これは、天動説には地球が平らだというものも含むというのが慣習的だが、もっとも進歩したプトレマイオスでは地球が丸いということを、専門家は知っていると読むこともできます。専門家の間では「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」だという主張もあるかもしれませんが、そう言い切ってしまてよいのかどうか…。「地球が中心」というのが前提とおっしゃいますが、紀元2世紀、後漢代の中国では張衡渾天説にもとづき天球儀(渾天儀)を作っています。この中心は地球でしょう? それとも、球じゃないから「地球」じゃないって? Shinobar 2006年7月16日 (日) 11:24 (UTC)[返信]

球形をしてないから地球じゃないですね。天動説がgeocentric modelの訳語である限り、それは取り替えられません。日本語に限らず、名称の字面が実際の内容を的確に表していないことはよくあります。「恒星」という語にしても、「超新星は恒星である」と言い切った時点で、「恒久」に輝くわけじゃないんだから語としては内容を的確には表していませんしね。学術用語の定義は可能な限り厳格であるべきで、申し訳ないが、私やあなたの都合で勝手には変えるわけにはいきません。いずれにしても、勘違い以外の使用例がない定義をこのまま残すわけにはいきません。早急に定義者を確認してください。確認されない場合は元に戻します。Modeha 2006年7月16日 (日) 12:25 (UTC)[返信]

geoあるいはEarthが球形かどうかです。wikipedia英語版の定義部分には「geocentric modelとは、Earthが宇宙の中心で、その回りを…。」「この体系は、古代ギリシアで一般的に信じられていた。」「古代中国にも同様の考えがあった。」「古代ギリシアや中世(ヨーロッパ)の geocentric modelは、球形の Earthが組み合わされているのが常である。したがってこれは、いくつかの神話に登場する、もっと古い flat Earth modelと同じではない。」などあります。wikipedia英語版の定義は、geo=Earthが球形であるとは限らないし、geocentric modelも古代ギリシアのものばかりとは言ってません。日本語版現記事の概要にある「半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。」という文章は、「古代ギリシアや中世の geocentric modelは」と限定している英語版とは異なっています。
高橋、p125は冒頭、「…天体の運行に関してさまざまな理論が提出されてきたが、ここではそれを網羅できない。コペルニクスを理解するのに必要な範囲に叙述を限定する」と断っています。高橋の言う「天体の運行」=「天動説」ではないと主張することもできますが、その「天動説」は「コペルニクスが批判の対象として選んだ説」とでも定義するほうが、よっぽど正直というのは、私の論です。また、高橋は「天動説」に同心天球説と導円─周転円説の2つを挙げています。少なくとも「天動説=プトレマイオスの天動説」ではありません。Shinobar 2006年7月16日 (日) 22:10 (UTC)[返信]

「コペルニクスが批判の対象」とかいう定義は、単にあなたが主張しているだけで、現代の日本語の天文学で主流の定義とは到底言えません。もしそうなら、その定義者を紹介してください。何度も書きますが、あなたの妄想で記事を改変されては困ります。Wikipediaは、あなたが正直だと思うことを勝手に宣伝してまわる場所ではありません。

また、たとえば、高橋が、天動説では地面は平らではないとわざわざ断っているところとかをあえて無視する理由も提示願います。英語版は、平らな地面のモデルは天動説ではないとわざわざ断っているのだから、Earthが平らでないのは明白です。私は別に、古代ギリシャのものだけがgeocentric modelだとは言っていません。同じ時代か前の時代に別の文明で似たことを考えた学者がいれば、そう書けばよろしい、ただ、球形の天球の中に、球状の地球が浮かんでいるというモデルは、何故か古代ギリシャ以外では生まれなかったか、あるいは主流の宇宙観にはならなかった、と言っています。

いずれにしても、根拠文献の提示がないままどんどん記事の書き換えを行っておられるようなので、ひとまず、根拠が提示されていない定義部分は元に戻します。定義者が見つかりましたら、「誰々はこう言う定義もあると主張している」という形で本文に戻してください。また、そのほかにも、誤解に基づく書き換えも、見つけ次第直しておきます。Modeha 2006年7月17日 (月) 03:55 (UTC)[返信]

私は新たな主張をしているのではなく、「球状の地球が世界の真ん中に浮かんでいる」ことを天動説の要件とするModehaさんの論はWikipedia英語版とは異なっていると指摘しただけです。英語版のgeo=Earthは球形であると限っておらず、中国の渾天説もgeocentric modelの仲間に入れています。いろいろなgeocentric modelがあるうち「古代ギリシアや中世の geocentric modelは」と、わざわざ限定を付け、球形のEarthという点で他とは違うとしています。つまり、天動説一般が球形のEarthを持つとはしていません。英語をどうお読みになるかという問題でもありますが。Shinobar 2006年7月17日 (月) 05:18 (UTC)[返信]

たとえば、『世界大百科事典』では、2~6世紀にアリストテレス研究がさかんに行われたが、その後、その研究はアラビア世界に移り、12~13世紀にヨーロッパで再び研究がさかんになったことと、この時代、キリスト教神学と対立したことが記されています。禁令も実際に出たはずですが、どのレベルで出たのか(バチカンが直接禁止したのか、特定の修道会が禁止したのかなど)はすぐには出ませんでした。川添信介『水とワイン―西欧13世紀における哲学の諸概念』という、この問題についての専門書もあるようですが未見です。Modeha 2006年7月17日 (月) 07:55 (UTC)[返信]

天動説とキリスト教会に関する件は、記事に「ヨーロッパでの受容と展開」の節を設けて書いておきました。
それはさておき、天動説に「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とするModehaさんのお考えは、Wikipedia英語版にも、『世界大百科事典』にも無いものです。『世界大百科事典』の天動説は、「天体の見かけの運動を記述するのに,地球の自転,公転を導入せず (多くの場合は地球を不動の中心に置いた〈地球中心説 geocentric model (geocentric theory) 〉に基づき),天界が運動することによって説明しようとする説をいう。」とあります。つまり、英語のgeocentric modelには(ギリシア語起源なので?)地球があるが、日本語の天動説は、そうでないものも含むという立場です。いっぽう、Wikipedia英語版による geocentric modelによればgeo=Earthは球形であると限っておらず、中国の渾天説もgeocentric modelの仲間に入れています。Shinobar 2006年7月17日 (月) 21:50 (UTC)[返信]

渾天説に関する言及は、英語版には見あたらないのですがどこにあったのか提示してください。いずれにしても、渾天説はflat earthじゃないですよね。前述したとおり、「天動説」という語は誤解を生みやすいのでなるべく使わないようにしている研究者はいます。村上陽一郎の定義がそう読めるというのなら、それは村上によればと限定して記事に書くのはかまわないんじゃないですか。ただ、村上は同心球仮説とプトレマイオス体系の紹介だけで、地面が平らなモデルまで含むとまでははっきり主張してないようですが。それはもう少し村上の言及を丹念に調べる必要はあるでしょうね。そうだとしても、高橋が、天動説は地面が平らではないとはっきり言い切っている以上、その部分を消すわけにはいかないでしょう。Modeha 2006年7月18日 (火) 10:34 (UTC)[返信]

あなたが典拠として出された Wikidepdia英語版、『世界大百科事典』、高橋『天球回転論』の3つのいずれもが、「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とはしていないと指摘しただけで、私が「村上によれば」とか、新たな主張を見付けて来たわけではありません。村上は「天動説」と「地球中心説」を区別しているようですし、高橋はp125で「天体の運行に関してさまざまな理論」と「天動説」と言葉を変えているようです。しかし「さまざまな理論」の一部を省略する理由は、コペルニクス説を理解するのに重要でないからだと言っており、この章に挙げたものだけが天動説だと、はっきりとは言っていません。p124も、読み方の問題です。Wikidepdia英語版は、さきに(7月16日)その最初の部分を抜き出して訳しました。古代ギリシアの説を紹介したあと、「同様の考えは中国でも…」としています。それから、日本語版現記事の「半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。」と、Wikidepdia英語版の記述「The geocentric model was usually combined with a spherical Earth by ancient Greek and medieval philosophers. Thus, it is not the same as the older flat Earth model implied in some mythology. 」とは一致していません。英文は、「古代ギリシアや中世のもの」の他にも geocentric modelが存在することを含意しています。3つを通して、私の印象は、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」とは言い切れず、「天動説」の定義には幅があるということです。Shinobar 2006年7月18日 (火) 13:46 (UTC)[返信]

同様の考えは中国でも...の部分には、[citation needed]タグ(誰がそんなこと言ってるのか証拠を見せろタグ)が張られているので、その一文だけは根拠にしないほうがいいと思います。いずれにしても、この文章だけでは渾天説への言及かどうかは分かりません。ではその部分は英語版からもっと細かく訳して、「天動説は、地球が球形であるという説と一体化し、古代ギリシアから中世まで使われた。このモデルは、もっと以前の神話などに出てくる「平らな地球」の世界観とは異なる」くらいにしておきますか? いずれにしても高橋は、天動説は地面が平らではないと言及していることは取り消せないと思いますが。Modeha 2006年7月18日 (火) 14:58 (UTC)[返信]

いえ、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」という立場と、もう少し広く採る立場と2つあると思うので、現記事を前者の立場で統一するのも悪くないと思っています。ただ、現状では2つの立場を認めるべきで、何の断りもなく他を切って捨てるのはよろしくない。たとえば、高橋は、プトレマイオスなどに対する無知を「誤解」(p123)と呼んでいるので、天動説にもいろいろあるという理解は、いちがいには否定されません。ここから先は私の主張ですが、「天動説=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」という立場は、近代科学のルーツを古代ギリシアだけに求める、特殊な歴史観です。地球から見た星の動きを精緻に予測できたのは、プトレマイオスだけではない。プトレマイオスが生まれるずっと前(紀元前104年)に作成された三統暦は、太陽、月と5惑星の位置予測を、どのくらいの精度か知らないが、載せている。アリヤバータの例を出したのも、古代ギリシア、インド、中世イスラムの間には互いの影響が認められており、西欧の数学と天文学の歴史でもインドは無視しえないということです。中世イスラムのバッターニーの業績はコペルニクスが引用しています。Shinobar 2006年7月18日 (火) 23:59 (UTC)[返信]

別にイスラムや中国の成果を無視しようとは思いませんが。ただ、今の記事にある以上の貢献が明らかになっているかというとそうともいえないと思いますが。それがあなたの主張でない、一般的に受け入れられたものなら、書いてもかまわないでしょうね。もちろん、主張者を明示して。イスラムや中国をもっと評価したいというのは分かりましたから、それを記事に入れるのは、その評価がもっと受け入れられてからにしてください。

「そういう立場がある」なら、そういう立場の日本語使用者の研究者を捜してきて、「誰々によれば」と書けばよろしいでしょう。しかし、少なくとも高橋は、「天動説(地球中心説)」と書いていますから、これら2つを同義に扱っているのは明白です。無知と呼んだのは、それは天動説ではないというはっきりした高橋の意思表示で、それが誤りだという宣言でしょう。高橋によれば、地面が平らな宇宙観が天動説というのは誤っている、とでも強い言い方に変えますか?

中国の暦法については、研究が進んでから書くべきでしょう。現物が残っていなくて精度も分からないのでは、議論のしようもありません。ただ、それがそれなり以上の精度で使えたもので、どういう宇宙モデルを持っていたのか分かるのなら書いてもかまわないでしょうね。おおざっぱな、角度15度程度の誤差でいいのなら、天動説みたいなモデルを考えなくても概算はできるはずなのでそういう方法かもしれませんが。もっとも中国は二十八宿かもしれませんが。Modeha 2006年7月19日 (水) 12:00 (UTC)[返信]

探して来いと言われたので、ちょっと辞典類を調べてみました。
  1. 『世界大百科事典』、平凡社 (2000?)「天体の見かけの運動を記述するのに,地球の自転,公転を導入せず (多くの場合は地球を不動の中心に置いた〈地球中心説 geocentric model (geocentric theory) 〉に基づき),天界が運動することによって説明しようとする説をいう。」
  2. 『日本大百科全書』、小学館 (1987)「宇宙の中心に地球が静止し、その周囲で月、太陽、5惑星、諸恒星が各個別の天球上を公転するという宇宙模型。地球中心説。」とするが、古代エジプトの丸天井説、インドの須弥山説、中国の蓋天説も含める。
  3. 『岩波科学百科』、岩波書店 (1989)「わたしたちのいる大地が静止していて、それを中心に月、太陽、惑星、さらに恒星がまわっているとする説。」
  4. 『物理学辞典』 改定版、培風館 (1992)「西洋では地球中心説という。」とし、エウドクソスとプトレマイオス、ティコのほかに、地球の公転を認めず、自転のみを認める説も含める。
  5. 『科学史技術史辞典』、弘文堂 (1994) 地球中心説として、とくに定義は記さず、古代エジプトの平板地球から古代ギリシア、プトレマイオスまでを概観。
と、まあ、けっこうバラバラです。天動説の現記事は4の『物理学辞典』の立場にほぼ近いといえそうです。その他の4つはいずれも「球状の地球が浮かんでいる」ことを要件とはしていません。
「天動説」という日本語の由来としては、江戸時代にコペルニクスの説が紹介されたときに「地動説」という訳語が使われ、それの対義語として「天動説」という言葉ができたそうです。これは地球が動くかどうかですので、自転は認めるが、公転は認めないという説はどちらに入るのか、分からなくなります。「太陽中心説」か「地球中心説」かならば、自転の有無は不問とし、地球の公転を認めるかどうかで分けることができるということでしょう。
「地動説」あるいは「太陽中心説」の代表をコペルニクス/ケプラーとしたとき、これに対置する「天動説」あるいは「地球中心説を、「地動説」以外の宇宙観すべてとすることもできます。『物理学辞典』以外は、それに近い考え方に依っているようです。この立場に対して、私の言葉で言えば「コペルニクスが主に批判の対象として選んだ説」を「天動説」と呼ぶ立場もあるでしょう。高橋の言葉でいえば「コペルニクスを理解するのに必要な範囲に叙述を限定する」ということです。天動説の現記事がその立場で説明を展開することは構わないのですが、一般的に、あるいは慣習的に、もっと広く採る立場もあることを認めて、記事冒頭に断り書きすべきだというのが、私の意見です。Shinobar 2006年7月22日 (土) 09:54 (UTC)[返信]

国語辞典的なものでいいのでしたら、『大辞林』初版(1988年)は地球中心説と同義に扱っていて、同心球仮説と周転円仮説の両方を(それだけを)紹介しています。新版は手元になくすぐに調べられませんでした。以前私がお聞きしたのは、天文学者がどう言っているか、でした。一般的な国語辞典執筆者と、学術上の専門家が使う用語の綴りや意味が若干食い違うのはよくあることで、たとえばうま味などもそうです。前述したとおり、そう書いてある国語辞典があるのなら、「国語辞典にはこう書いてあるものもある」と書けばよろしい。「しかし学術上は厳密に分離されることが多く、混乱や誤解を防ぐために、天動説(地球中心説)などと書く研究者もいる」とでも書き足しますか? どちらにしても、1990年代後半以降の文献では天動説は地球中心説とするものが多いようですが。それはShinobar氏の調査でもそうですね。ちなみに、世界大百科事典は確か最新版が1988年です。それで異議がないのでしたら、そう書き換えます。Modeha 2006年7月24日 (月) 13:01 (UTC)[返信]

まぜっかえすようで申し訳ないのですが、1990年あたりを境に意味が変化したと言う事実があるのですか?もしそうならばその理由が知りたいところですが。yhr 2006年7月24日 (月) 13:21 (UTC)[返信]

高橋訳の『天球回転論』が出たのが1993年なので、この訳が影響を与えた可能性はあると思います。私の推論ですが。Modeha 2006年7月24日 (月) 13:37 (UTC)[返信]

なるほど。どうも、どっちかにすっきり割り切れると言う話でもないような感じですね。あまり突っ込んでもそれこそ独自の研究と言われかねませんが、どの辺まで記事に反映するか難しいところです。これが、天文学辞典なら現在主流の解釈だけ書いておくのでもいいのですけど、百科事典と言う事を考えると、ある程度はそれ以前の使われ方についても書かないといけないのかもしれません。yhr 2006年7月24日 (月) 15:21 (UTC)[返信]
問題を2つに分けて話をしなければいけません。
  1. 「天動説」か「地球中心説」か。これは地球の自転は認めるが、公転は認めない説があるので、「地動説 vs.天動説」よりも「太陽中心説 vs.地球中心説」のほうが訳として適切だとするものが、最近増えているようです。もともと地球が自転かつ公転する説を地動説とし、それ以外を天動説としていたので、意味は変わっておらず、訳語が変わって来ているということです。
  2. 「天動説(地球中心説)」の範囲をどこまで採るか。これについては時代的な傾向は見られず、「天動説(地球中心説)=エウドクソス/アリストテレス/プトレマイオス」にとどめる場合と、もっと広く採る場合があるということです。Shinobar 2006年7月26日 (水) 23:34 (UTC)[返信]

このコメントー>Shinobar 2006年7月22日 (土) 09:54 (UTC)にあるように、自分がみた範囲でも、やはり「天動説」という言葉の守備範囲は若干のばらつきがあると思います。が、基本的には、「地動説」と対にして使う場合がほとんどのように見えます。例えば、西方のアリストテレスープトレマイオス的な宇宙論の中国やインド、日本への流入をいうときに、何の修飾も前振りもなく、「天動説」とは言わないと思います。一方、渾天説、蓋天説や須弥山説を天動説とはあまり言わないのも、地動説との対を意識した語だからであって、特に意味合いとして除外されているのではないのではないでしょうか。また、天文学者は別に科学史の専門家でもないですし、むしろ科学史や文化史の方々がどのように使っているかのほうがまだ重要だと思います。いずれにせよ、素人の作る一般的な百科事典ですし、この用語の意味合いを敢えてここで決める必要もないと思います。[返信]

ただ、記事の内容の範囲については、古代ギリシア起源の特定の宇宙論にほぼ限定する方がよいと思います。なぜなら、その他まで含めると内容が余りにも内容が多くなってしまいます。また、蓋天説etcはその名でまた記事が出来ているからです。

それから、「天動説か地球中心説か」ですが、よほど不適切でないかぎりは、一般的な用語法に準じて天動説とし、注釈的に「地球中心説」の語を添えるのが、一般的な百科事典としては適切だと思います。

現代の天動説の後半部分[編集]

「現代の天動説」の後半部分が同一IPのユーザーによって「大きな誤謬」または「文脈完全無視」として削除されていますが、「大きな」「完全」といった言葉をつけるほどの誤謬、文脈無視がどこにあるのか不明です。該当箇所は過去にも議論の対象になっていますが、誤謬や文脈無視との指摘はありません。Syrotyna 2006年11月6日 (月) 12:34 (UTC)[返信]

前半の記述は、永井哲学の見方に関するものであるのに対し、後半付加部分は明らかに違う次元の内容だからです。または、永井哲学の記事が異質なのかもしれませんが、実際はこちらのほうが先にあったのでは? 皆さんがそのように読めないというのであれば反論のしようもありませんが・・・219.196.247.221 2006年11月10日 (金) 23:53 (UTC)[返信]
この項目で説明されているのは「現代の天動説」であり、「永井哲学と天動説」ではありません。本文中にも「永井均など」と書かれているように、永井哲学はあくまで「単純に天動説を真理として教えることへの疑問」の一例でしかありません。「現代の天動説」の登場の経緯も、履歴を見る限りではまず「小学生の4割が云々」の話が書かれ、それに対する反論(?)として永井哲学が書かれ、更に現代における天動説の意義(?)について書き加えられたようです。Syrotyna 2006年11月12日 (日) 06:07 (UTC)[返信]
そうかもしれませんが、文脈が完全に顛倒していることに皆さんは全然気付かないのですね。まあ、私が被害を蒙ることはありませんから固執しません。これが Wikipedia というものですね。219.196.247.221 2006年11月12日 (日) 13:35 (UTC)[返信]

具体的にどのように「文脈が完全に顛倒している」のか御指摘いただければ幸いです(219.196.247.221さんでなくても歓迎)。本当に文脈が顛倒しているのであれば、百科事典の記述として極めて不適切ですので、この記事を読む皆さんのためにもお願いします。Syrotyna 2006年11月13日 (月) 00:31 (UTC)[返信]

『但し』以下、それ以前と全然関係ない内容になっています。しかも永井哲学が批判している、まさにその内容が記述されているのです。しかも『数学的に正しくて物理的・力学的に破綻���とは何を書いているのか不明です。これは物理学をかじった事のある人が書いたものと思われますが、まさにそういう態度をを永井は批判しているのです。記事を書こうという人なら、読解力もつけてください。219.196.247.221 2006年11月13日 (月) 12:40 (UTC)[返信]
まず、「2004年国立天文台の〜」と「なお、〜」はタイトル(現代の天動説)に関連する別個の話題であり、両者の関連性は必ずしも必要ないと思います。問題は「但し」から段落末までの一文のみでしょう。
書かれている内容についてですが、『数学的に正しくて』とは「天動説モデルに基づく数式によって、天体の運動(地球から見た)を予測できる」という意味で正しいということであり、『物理的・力学的に破綻』は、「しかし天動説モデルを正当化する力学体系は過去に存在したことがなく、今後も存在しないであろう」という意味で破綻しているということです(地動説を正当化する力学体系はもちろん存在しています)。よって内容自体は何ら矛盾を孕んだものではなく、「天動説」の記事をよく読めば理解できないことはないと思いますが、よりわかりやすい表現にすべき余地はあるでしょう。
永井氏は『地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうか』という問いに対し、「No」と言っているわけですね。しかし、この問いに対しては「Yes」と答える立場も存在します。天動説の問題に関する永井氏の批判が適切かどうかには、当然疑問の余地があります。現在の記述では、最後の一文を除くと永井氏の立場に対する批判が欠けてしまい、中立性に問題があるように思えます。Syrotyna 2006年11月14日 (火) 07:53 (UTC)[返信]
永井は「No」とはいっていません。永井は決して天動説云々に言及しているのではなく、教わったことをそのまま受け入れてしまうという態度を批判しているのです。やはり文脈を読んでいませんね。構いませんよ。ロラン・バルトもいっているように、文章は書かれた途端に読者のものになってしまうのですから。『破綻』という言葉も読む人によって異なった解釈を生じているのです。Syrotynaさんの読み方と、私の読み方は当然異なっていますが、決して私は喧嘩を売ろうと思っているのではないことくらいは受け入れてください。219.196.247.221 2006年11月14日 (火) 11:15 (UTC)[返信]
この記事のテーマは「天動説」ですから、そのような文脈からすれば「現代の天動説」の第一段落目は「小学生の4割が云々」とそれに対する見解についての項目になるはずです。私自身は永井氏について何も知りませんが、ここで永井氏の話は、「小学生の4割が云々」に対する見解の一つとして出ているのだと理解していました。しかし、219.196.247.221さんがおっしゃるように永井氏が天動説云々に言及しているのではないなら、永井氏について「天動説」の項目で言及する必要はないように思えます。「教わったことをそのまま受け入れてしまう」ことの是非は一般論で、天動説地動説に固有の問題ではありません。Syrotyna 2006年11月15日 (水) 03:10 (UTC)[返信]
それでは、前半を削除すればいかがでしょうか。このままでは文章の途中から顛倒しているという事態は改善されませんし、記事を書いた皆さんも永井哲学の批判の対象になっているのは嫌でしょうから。219.196.247.221 2006年11月15日 (水) 12:53 (UTC)[返信]
別に永井氏の批判の対象になるには嫌でも何でもありませんが、「天動説」の記事であるにもかかわらず、天動説とはほとんど関係のない「永井哲学」が批判していることが書かれている、という理由で(「顛倒」「破綻」と言ってますが結局はそういうことでしょう)記事がごっそり削除されるのは不適切だと思いますし、個人的にも不愉快です。
それはともかく、削除するのは永井氏に直接関係ある部分だけで良いでしょう。その他の変更も含めた改定案として
『2004年国立天文台の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。文部科学省の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだったが、日本における理科離れ、科学リテラシーの低さとあわせて問題視する意見もある。一方で、多大な労力を要することになるが、それさえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能であり、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかには議論の余地がある。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識することは大切である。但し、天動説(地球中心説)が正しいのはあくまで数学的にであって、物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。』
を提案します。Syrotyna 2006年11月16日 (木) 10:26 (UTC)[返信]
『但し』以下を『但し、天動説(地球中心説)を数学的に記述することは可能であるが、それによって誰もが容易に理解できるかという点では極めて妥当性を欠いているのである』とすべきでしょうね。相変わらず『破綻』の意味が私にはつかめません。219.196.247.221 2006年11月16日 (木) 12:54 (UTC)[返信]
義務教育レベルの精度であれば、天動説も地動説も数学的には同じ(どちらが難しいとも言いがたい)ですので、その変更は不要でしょう。天動説のほうが多大な労力が必要になるのは実用的な精度で計算する場合です。「破綻」ですが、天動説はまず第一にニュートン力学の運動の第1法則に反しており(地球・太陽系の重心が慣性運動をしないため。太陽を固定した場合は近似的に慣性運動と見なせる)、そのため以降の議論が破綻します。Syrotyna 2006年11月17日 (金) 13:28 (UTC)[返信]
数学的に記述可能とは、近代物理学の立場では座標系の選び方のことだと思います。座標系を変えると破綻するということが、さっぱりわかりません。破綻する場合は数学的に記述不可能である、ということになるのだと思います。219.196.247.221 2006年11月17日 (土) 07:54 (UTC)[返信]
確かに地球が静止するような座標系を選べば、天体の天動説的な運動は万有引力+慣性力で問題なく記述できます。しかし、今のように天動説・地動説の是非を物理的に問う場合、座標のとりかたに由来する慣性力は普通は除外すると思います。Syrotyna 2006年11月18日 (土) 16:28 (UTC)[返信]
『現代の-』となっていましたので『天動説』そのものが変貌してきたように読み取れました。『現代における天動説の立場』とでもいった標題であれば誤解を避けられるのではないでしょうか?219.196.247.221 2006年11月19日 (日) 00:19 (UTC)[返信]
そうですね。では最初の段落を2006年11月16日 (木) 10:26 (UTC)で書いたものにし、表題を『現代における天動説の立場』にする、でよろしいでしょうか?Syrotyna 2006年11月20日 (月) 02:25 (UTC)[返信]

結構です。219.196.247.221 2006年11月20日 (月) 14:10 (UTC)[返信]

現状の記事では内容が大幅に削られており、小学生へのアンケートと天動説を関連付ける記述が無いため、この部分を現状に合わせて日本の理科教育という節に分離しました。また、残りの部分も、天動説との関連についての記述が無くなっているため、また、上の議論にある『天動説』そのものが変貌してきたという誤解が生じないように、節名を現代の宇宙観に変更しました。事後になり申し訳ありませんが、問題などありましたらご指摘ください。よろしくお願いします。--いけ2 2007年8月14日 (火) 13:41 (UTC)[返信]