クラーモント男爵

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クラーモント男爵(クラーモントだんしゃく、: Baron Clermont)は、イギリス貴族の爵位。アイルランド貴族として3度、連合王国貴族として1度創設され、いずれも廃絶している。

歴史[編集]

アイルランド王国の政治家トマス・フォーテスキュー英語版(1683–1769)の息子で同じく政治家のウィリアム・ヘンリー・フォーテスキュー(1722–1806)は1770年5月26日にアイルランド貴族であるラウス県クラーモントのクラーモント男爵(第1期)に、1776年7月23日にラウス県クラーモントのクラーモント男爵(第2期)とクラーモント子爵に、1777年2月10日にラウス県におけるクラーモント伯爵に叙された[1]。このうち、第1期のクラーモント男爵とクラーモント伯爵位は通常通り男系男子のみ継承でき、第2期のクラーモント男爵とクラーモント子爵位は特別残余権(special remainder)が規定され、ウィリアム・ヘンリー・フォーテスキューの男系子孫が断絶した場合は弟ジェームズ・フォーテスキュー英語版(1725–1782)およびその男系子孫が継承できるとした[2]。そして、初代伯爵が死去すると、男系男子のみ継承できる爵位は廃絶、それ以外は特別残余権に基づきジェームズ・フォーテスキューの次男ウィリアム・チャールズ・フォーテスキュー英語版(1764–1829)が継承した[3]。ウィリアム・チャールズ・フォーテスキューも政治家であり、アイルランド庶民院議員と連合王国庶民院議員を務めたが、生涯未婚のまま死去すると爵位は廃絶した[3]

前述のトマス・フォーテスキューの伯父の来孫にあたるトマス・フォーテスキュー(1815–1887)庶民院議員を務めたのち、1852年2月11日にアイルランド貴族であるラウス県ドロミスケンにおけるクラーモント男爵に叙された[4]1800年合同法に基づき、アイルランド貴族爵位の創設には爵位3つの廃絶が必要であり、このクラーモント男爵位はランクリフ男爵ニュージェント男爵ロスコモン伯爵の廃絶を爵位創設の根拠とした[4]。また、この爵位には特別残余権(special remainder)が定められ、初代男爵の男系男子が断絶した場合はその弟チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー(1823–1898)およびその男系子孫が継承できるとした[4]。トマス・フォーテスキューは1866年5月2日に連合王国貴族であるラウス県クラーモント・パークにおけるクラーモント男爵にも叙され、この爵位は特別残余権が定められなかった[4]

トマス・フォーテスキューが死去すると、第4期のクラーモント男爵位は廃絶、第3期のクラーモント男爵位は特別残余権に基づきチチェスター・パーキンソン=フォーテスキューが継承した[4]。チチェスターは自由党、のち自由統一党所属の政治家であり、アイルランド主席政務官商務庁長官王璽尚書枢密院議長を歴任して、1874年2月28日に連合王国貴族であるラウス県カーリングフォードにおけるカーリングフォード男爵に叙されたが、彼にも息子がおらず、その死をもってすべての爵位が廃絶した[5]

クラーモント男爵(1770年)[編集]

クラーモント男爵(1776年)[編集]

クラーモント男爵(1852年)[編集]

クラーモント男爵(1866年)[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 276–280.