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Portal:ロシア/特集項目/一覧

Portal:ロシア/特集項目/0

タタールの軛(タタールのくびき)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、ロシア語: Монголо-татарское иго英語: Tataro-Mongol Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシアウクライナベラルーシ)支配をロシア側から表現した用語である。言い換えれば、現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。

13世紀、分領制の時代に入っていたルーシは東西からの二大勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。この世紀の初頭には未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)をはじめとするカトリック教徒のドイツ人北方十字軍および東方殖民の活動を開始し、同じキリスト教徒ではあるが正教徒であったルーシの人びととの間に衝突が起こるようになった。

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Portal:ロシア/特集項目/1

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァロシア語: Анастаси́я Никола́евна Рома́нова, ラテン文字転写: Anastasia Nikolaevna Romanova1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女1917年二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって裁判手続きを踏まない殺人が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年ロシア正教会によって新致命者として列聖された。

皇帝一家が埋葬された場所が長年の間、知られていなかったという事実によって後押しされ、殺害後に彼女の生存の伝説が有名となった。1991年にエカテリンブルク近郊で両親と3人の大公女の遺骨が発掘され、さらには2007年に弟のアレクセイと歳の近い姉のマリアもしくはアナスタシア、どちらか1人の大公女の遺骨も発見された結果、皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。

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Portal:ロシア/特集項目/2

ロシアの農奴制」(ロシア の のうどせい、ロシア語: Крепостное право в России)では、モスクワ大公国の時代から帝政ロシアにかけてつづいたロシア農奴制の特徴と展開について説明する。

中世ロシア社会では、収穫を終えた「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていた。ただし、みずからの領主に対して負債のある場合には移動の権利を行使できなかったため、実際には、多数の農民が土地に拘束されていた。15世紀に入ると、富裕な領主が負債を肩代わりする代償として農民を自己の領地へ引きぬく行為が増加しており、このことは中小領主の農地経営をむしろ圧迫した。15世紀末、リューリク朝モスクワ大公で「全ルーシの君主」を称したイヴァン3世が農民の移動を制限する「1497年法典(スヂェブニク)」を定めた。これにより、農民の移動は「聖ユーリーの日」の前後それぞれ1週間(計2週間)に制限されることとなった。

イヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ国を建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)もまた1550年に同様の法典を定めた。これは、1497年法典に改正を加えたもので、中小領主である士族層の経済的安定を図る一方で修道院貴族層の土地所有制限条項をふくみ、また、代官への監督強化を盛り込んだ、全体としては中央集権化の方向性を示した法令であったが、農民の移動における「聖ユーリーの日」にかかわる規定については、前代をほぼ踏襲した。イヴァン4世統治下のロシアは、コサック(カザーク)の頭領イェルマークの遠征などにより、その版図をシベリアに広げたが、このような外的な発展は内的にはむしろ農奴制への傾斜をもたらした。

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Portal:ロシア/特集項目/3

ロシア正教会(ロシアせいきょうかい、ロシア語Русская Православная Церковь英語:Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教教会であり、数多くある独立正教会の一つである。

正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会グルジア正教会ルーマニア正教会ブルガリア正教会日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。

教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名である。

17世紀の奉神礼改革に反対し古い奉事方法を守ったために主流派ロシア正教会から追放された古儀式派は、自らこそが正統なロシア正教会だとしている。

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Portal:ロシア/特集項目/4

タマーラ・プラトーノヴナ・カルサヴィナカルサーヴィナとも、ロシア語: Тама́ра Плато́новна Карса́вина, ラテン文字転写: Tamara Platonovna Karsavina, 1885年3月10日 - 1978年5月26日)は、ロシア出身のバレリーナである。ロシア帝室マリインスキー劇場のプリマ・バレリーナを務める一方、セルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)における中心ダンサーとして活躍した。古典から実験的な作品に至るまでをこなし、幅広い芸風で多くの観客を魅了した。ロシア革命を機にイギリスに亡命し、同国におけるバレエの発展に大きく貢献した。アンナ・パヴロワと並び、20世紀前半を代表するバレリーナである。

1885年、サンクトペテルブルクに生まれる。帝室バレエのダンサーであった父プラトン・カルサヴィンの影響で幼少時からバレエダンサーを志し、家族ぐるみでつきあいがあった元ダンサーのマダム・ジューコヴァ、次いで帝室バレエを引退した父からバレエのレッスンを受け、1894年に帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校の入学試験に合格した。

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Portal:ロシア/特集項目/5

ゼエヴ・ウラディーミル・ジャボチンスキー1880年10月18日1940年8月4日ヘブライ語: זאב ולדימיר ז'בוטינסקי‎、ロシア語: Влади́мир Евге́ньевич Жаботи́нский)は、シオニストの指導者でシオニスト修正派エツェルを率いた。また、オデッサで自衛組織を創設、指導者となった。作家、詩人、翻訳家でもあった。

ゼエヴ・ジャボチンスキーはロシア帝国領のオデッサ(現・ウクライナ領)で生まれた。彼はユダヤ人中流家庭で育ち、ロシアの学校教育を受けた。そのころにヘブライ語の教育も受けていた。後にジャボチンスキーは彼の自叙伝に、彼はユダヤの信仰や伝統とはかけ離れた環境でしつけられたと書いている。

ジャボチンスキーは高校を終える前にはすでにジャーナリストとしての才能の片鱗を見せ始めていた。彼が16歳の時の初めての書き物は、オデッサの新聞に載った。彼は高校卒業と同時にロシアの新聞社の記者としてスイスベルン、また後にイタリアに送られた。彼は外国では『アルタレナ』(イタリア語で「鞦韆」を意味する。後にイルグンメンバーが使用する輸送船の名前にもなった。)の偽名を使って執筆を行っており、また、ローマ・ラ・サピエンツァ大学で法律を学んだ。しかし、彼が弁護士の資格を取ったのはロシアへ帰るのと同時期だった。

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Portal:ロシア/特集項目/6

ロシア帝国ソビエト連邦時代を中心としたロシアクラシック音楽の歴史について述べる。

中世にはギリシャ正教とともにビザンティン聖歌が取り入れられたが、世俗的な音楽は禁止され顕著な発達を見ることはなかった。18世紀から西ヨーロッパの音楽がもたらされるようになると、やがてロシア民謡の影響などを取り入れ独自の発展を遂げ、19世紀にはロシア5人組と呼ばれる集団が活躍、ほぼ同時期にピョートル・チャイコフスキーが幅広いジャンルに名曲を残した。19世紀末から20世紀初頭にはセルゲイ・ラフマニノフアレクサンドル・スクリャービンらが活躍。1910年代からは革新的な音楽語法が盛んになるが(ロシア・アヴァンギャルド)、1930年代からは一転して政治による規制を受けるようになり、社会主義リアリズムのもとで保守化した。セルゲイ・プロコフィエフドミートリイ・ショスタコーヴィチはこの路線に沿った交響曲を数多く残している。

『ロシア民族音楽物語』の著者ウラジーミル・ポポノフによれば、ロシア音楽は古代スラヴ人の原始社会から発生したとする。スラヴ人はドニエプル川の中部・下部沿岸地帯からペイプシ湖(チュード湖)と北のラドガ湖までの地域やヴォルガ川ドン川の上流域からカルパティア山脈の斜面にかけての地域に住み着いていた。古代スラヴ人の異教信仰や共同体的氏族制度の儀礼に結びついて舞踊音楽が現れ、四季の農耕を通じたの歌、結婚式葬式など家族生活上の歌が生まれた。

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Portal:ロシア/特集項目/7

典型的なコサックのイメージを示すコサック・ママーイ

コサック[1]ウクライナ語: козакロシア語: казак、日本語では哥薩克とも表記)は、ウクライナロシアに存在した軍事的共同体、およびその共同体に属した人々を指す語である。周囲の封建国家や遊牧民に対する防衛のため、一種の軍事共同体を組織した[2]。特定の民族を示す語ではなく、チュルク系民族タタールスラブ人など様々な民族的出自の人々がその構成要素となった[3]

15世紀にはウクライナ中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯に住み着いていた。16世紀半ば以降、ドニエプル川の中流を中心とするザポロージャ地方やドン川の下流に根拠地を築き、それぞれザポロージャ・コサック(ウクライナ・コサック)およびドン・コサックと呼ばれた。
オスマン帝国スルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックイリヤ・レーピン、1880年)
コサックの遊び(ティモフィ・カリンシキーウクライナ語版、1786年)
出陣へ(ニコライ・ピモネンコ、1902年)

当初のコサックは周辺国家に依存しない独立した集団であったが、16世紀以降ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランド・リトアニア共和国、ドン・コサックはロシア・ツァーリ国に属し、軍務を提供する見返りに自治権を与えられた。コサックは自治権を守るためにしばしば保護国に対して叛乱を起こした。1648年のフメリニツキーの乱はウクライナにおけるザポロージャ・コサックの国家を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した一方、帝政ロシアの庇護を求める結果となった。18世紀、ザポロージャ・コサックはロシアからの離脱を図るもののこれに失敗し、18世紀末にロシア帝国によって廃止された。ドン・コサックによる反乱はいずれもロシアによって鎮圧され、結果ドン・コサックはロシアの体制に取り込まれた。

帝政ロシアはコサックを国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などの任にあてた[4]19世紀以降、コサックはロシアにおいて貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除と引き換えに兵役義務が課され、植民政策における開拓、国境防備、治安維持などに従事した。ロシア内戦中の1919年から1920年にかけては弾圧の対象となり、多数のコサックが離散した。

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  1. ^ コザーク、カザーク、コザックとも。ウクライナ語: козак コザーク、複数形はкозаки コザクィーロシア語: казак カザーク、複数形はказаки カザキーポーランド語: kozak コザーク、複数形はkozacy コザーツィ。
  2. ^ コサックとは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  3. ^ 何者?ゼレンスキーも語るウクライナの自由の民コサックとは”. NHK NEWS WEB (2022年9月21日). 2022年10月16日閲覧。
  4. ^ 遠藤良介 (2018年5月24日). “デモ参加者に襲いかかるコサック ロシアに漂う危険な兆候”. 産経新聞. 2018年5月25日閲覧。