邪馬台国九州説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九州周辺の地形図

本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。

概要[編集]

新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内」(内藤湖南ら)と「九州」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。

その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 1]

基本論拠[編集]

邪馬台国九州説では、福岡県糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の御井郡、福岡県の大宰府太宰府市)、大分県宇佐神宮宮崎県西都原古墳群熊本県球磨郡など諸説が乱立している。

邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。

根拠[編集]

  • 帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされる[要出典]こと、[注釈 2]
  • 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられる[要出典]こと[注釈 3]
  • 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしている[要出典]こと。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしている[要出典]こと。
  • 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている[要出典]
  • 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる[要出典]。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる[独自研究?]。また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い[独自研究?]
  • 「魏志倭人伝」中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を棺と見なす見解に基づき、北九州地方に棺が多数出土していることや[注釈 4]、石棺無槨の墳丘墓が多数出現している[要出典]こと。また「無槨」の記述から、槨を持つ畿内の古墳は当てはまらない[要出典][注釈 5]
  • 福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡伊勢神宮神道五部書に伝わる八咫鏡と同型・同規模であり、天照大御神といった太陽神信仰との関係が考えられる[要出典]こと。
  • 福岡県久留米市には、宝賀寿男が、規模や副葬品、石棺無槨、主体部および周囲の集団墓(宝賀は殉葬墓ではないかとする)などの状況が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓記載とよく一致するとする[1]祇園山古墳がある。

反論[編集]

九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  • 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくい[要出典]こと[注釈 6]
  • 大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくい[要出典]こと。ただし使節が倭国の戸数を全て調べたとは考えられず、倭人からの伝聞が含まれると考えられるため、記載された戸数が必ずしも正確とは断定できない[要出典]
  • 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在している[要出典]こと。ただし九州説では卑弥呼の時代を古墳開始期説として採用しない[要出典]ため、これは反論にならない[独自研究?]
  • 九州説は古墳築造の開始時期を4世紀以降とする旧説に拠っているが、現在は古墳築造の開始を3世紀とする説が多く支持されている[要出典]。ただし上述のホケノ山古墳の事例などから、その開始期を見直そうとする議論も行われている[要出典]
  • 漢書西域伝(西暦80年頃の成立)において「大月氏国、(中略)長安を去ること万一千六百里」とあるが、当時綿密な測量が成されたとは考え難く、単純に「非常に遠い」というニュアンスを表現した可能性がある[要出典]「魏志倭人伝」に記載される「郡から女王国まで万二千余里」の記述は、漢書における上記の文章を踏まえ、同様に「非常に遠い」ことを示す婉曲的な表現に過ぎず、12,000里を邪馬台国の位置推定の算出根拠として扱うのは無理がある[要出典]。なお、長安から大月氏国までの距離は、洛陽から日本列島までの距離より1.5倍程度遠いが、中国中央から見れば同様に隔絶した辺境地帯であり、魏志東夷伝においてのみ短里表記とする根拠が乏しい[要出典]
  • そもそも魏または帯方郡の使者が邪馬台国の宮殿に実際に赴いたとする根拠が無い[要出典]卑弥呼は「婢千人を侍らしていた」とあるが、これは江戸城大奥の人員が特に多かった時期の人数に匹敵する。江戸時代より総人口、生産力、物資輸送力が遥かに劣る弥生時代末期において、この様な大規模な集団を恒常的に維持するのは困難であり、特に九州内の一地方政権の力量では不可能に近い[要出典]卑弥呼に関する記述は伝聞に依拠したものと考えるのが妥当[要出典]であり、邪馬台国までの里程や政治情勢等についても、同様に伝聞に依拠したものに過ぎない可能性がある[要出典]

3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点[編集]

{{いつ範囲|はやくから薮田嘉一郎森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し[要出典]その後の九州論者はほとんどこの説に追随、またはこれに近い説を表明している[要出典]

三角縁神獣鏡を、の鏡またはの工人の作であり、の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もある[要出典]。しかし、様式論からはの作ではなく、少なくとも銘文にある徐州は呉の領域ではない[要出典][注釈 7]これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代235年から244年に集中しているのか理解が難しい[要出典]。また、九州説論者[誰?]の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとする[要出典]が、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かない[要出典]2世紀のものは量も少ない上、畿内でも少数は出土している[要出典]。ただし畿内と北九州を別勢力と見た場合、優位性だけで位置を断定できない[要出典]

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの

  • 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる主として九州に存在する「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説がある[要出典]。しかし「銅矛文化圏」と考えられていた九州で銅鐸や銅鐸および鋳型が出土することなどから、すでに「銅矛文化圏」「銅矛・銅戈文化圏」自体が成立しないことが明らかとなっている[2]

短里説[編集]

距離問題については「短里」の概念が提示されている[要出典]「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経一寸千里法)である[要出典]魏志倭人伝では狗邪韓国から対海国(対馬)までが千里、対海国から一大国壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている[要出典]。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている[要出典]。またこの短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている[要出典]

主な比定地[編集]

筑紫平野[編集]

山本郡説

古くから支持されており[要出典]人口が多く「ヤマト」の地名に関係しそうな山本郡とする説[要出典]

甘木・朝倉説

平塚川添遺跡甘木朝倉[要出典]

久留米説

御井郡域である久留米説を邪馬台国とする説[要出典]久留米市にある祇園山古墳を卑弥呼の塚とする説もある[1]

八女説

豊後国風土記には景行天皇が豊国日田郡(福岡県八女市の隣接地域)を訪れたとき、人に姿を変えた比佐津媛(ひさつひめ)という女神と話をしたという逸話があり、この姫が卑弥呼であるという説がある[要出典]

福岡県[編集]

福岡平野説

奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説[要出典]具体的には様々な説に分かれる[要出典]伊都国や奴国から放射説行程とする説もある[要出典]

西九州[編集]

佐賀平野説

唐津から松浦川沿いや現国道323号沿いなどの経路で佐賀平野に抜ける説[要出典]。当地には吉野ヶ里遺跡が所在する。

九州北東沿岸[編集]

宇佐説

経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮周辺を邪馬台国と見る説[要出典]この地には神武東征時に神武天皇へ協力した宇佐氏(宇佐国造)が存在する[要出典]

京都郡説

現在の行橋市や刈田町のあたりとする説[要出典]

東遷説[編集]

国家東遷説[編集]

神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説がある。東遷説には、この東遷を神武東征天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても多くの説がある。

白鳥庫吉和辻哲郎[3]戦前では有名である[要出典]が、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた[要出典]

久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした[4]。また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし神武東征天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)[要出典]

少数東征説[編集]

記紀の神武東征を実際の歴史の神話化と見るのは上記説と一部被るが、北東アジア史を通して国家の危機でもない限り、国が丸ごと移動する例は他になく、氏族の動向や地理・科学的な面からも国家規模の東遷はありえず、神武天皇とそれに伴う少数者の東征と見る説[要出典]。上記説の弱点である東征理由も、北東アジア史においてままある諸王が新天地を求めた結果としている[要出典]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 前者は記紀に見える景行・成務・仲哀朝における北九州征伐を想定する[要出典]後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多い[要出典]が、隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある[要出典]
  2. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし[要出典]山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする[要出典]
  3. ^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである[要出典]畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという[要出典]魏略』には「拘右智卑狗」とある[要出典]が、古代の日本語は語中に母音が来ることはない[要出典]から、これは誤字と見てよい[独自研究?]吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている[要出典]
  4. ^ 現在[いつ?]では、3世紀には既に甕棺は極めてまれにしか存在しなかったことが判明している[要出典]
  5. ^ 箸墓古墳と同年代の築造かそれより先行するホケノ山古墳が有棺有槨である上、造営年代が4世紀前半ではないかと疑問視する意見がある[要出典]
  6. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする[要出典]
  7. ^ 一般的にはの領域と考えられている[要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b 宝賀 2001, pp. 62–95.
  2. ^ 岩永 1007, p. 83.
  3. ^ 大正9年『日本古代文化』
  4. ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)

参考文献[編集]

  • 岩永省三『金属器登場』講談社、1997年。ISBN 978-4062651073NCID BN15842345 
  • 奥山, 誠義「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、191-192頁。ISBN 9784902777611NCID BA89391331 
  • 岡林, 孝作、水野, 敏典、北山, 峰生「実年代について」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、289-291頁。ISBN 9784902777611NCID BA89391331 
  • 久米雅雄ほか『歴史における政治と民衆 : 北山茂夫追悼日本史学論集』日本史論叢会、1986年1月。 NCID BN03024587 
  • 田中卓『海に書かれた邪馬台国』青春出版社、1975年。 
  • 宝賀寿男卑弥呼の冢補論-祇園山古墳とその周辺-」『季刊・古代史の海』第26巻、「古代史の海」の会、2001年12月20日、62-96頁、ISSN 13415522NAID 40005104602 
  • 若井, 敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642056946