藤堂高堅
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安3年2月14日(1650年3月16日) |
死没 | 正徳5年6月14日(1715年7月14日) |
改名 | 正次郎・図書(幼名)、高堅 |
別名 | 別名:高隆、高登、高忠 |
戒名 | 顕輝院心峰宗覚大居士 |
墓所 |
東京都港区南青山の青山墓地 三重県津市久居二ノ町の玉施寺 |
官位 | 従五位下、備前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢国久居藩主 |
氏族 | 藤堂氏 |
父母 |
父:藤堂高次、母:黒川氏(香雲院) 養父:藤堂高通 |
兄弟 | 高久、高通、高堅、高睦 |
妻 | 正室:なし、側室:小林氏(春光院) |
子 | 辰、冬、高陳 |
藤堂 高堅(とうどう たかかた)は、江戸時代中期の大名。伊勢久居藩の第2代藩主。久居藩藤堂家2代。久居陣屋の主。
生涯
[編集]慶安3年(1650年)2月14日、伊勢津藩主・藤堂高次の四男として生まれる。藤堂高虎の孫に当たる。幼名は正次郎、通称は図書。
寛文9年(1669年)9月29日、兄の高久から伊勢国安濃郡内3000石を分与されて、寄合に所属する旗本となる。同年10月23日、将軍徳川家綱に御目見する。元禄10年(1697年)10月5日、兄の久居藩初代藩主・高通が死去したとき、三男の高敏が幼少だったため、高敏が成長するまでの間の代つなぎとして跡を継ぐこととなった。このとき、自分が領していた3000石を合わせて久居藩は5万3000石となる。しかし後に高敏が本家の津藩主を継いだため、そのまま久居藩主として留任することとなった。同年10月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。同年12月15日、従五位下・備前守に叙任する。
元禄10年(1697年)に江戸本所倉庫の防火使、元禄11年(1698年)に浅草倉庫の防火使になる。しかし元禄16年(1703年)、正徳3年(1713年)に江戸屋敷が焼失している。正徳5年(1715年)6月14日に江戸で死去した。享年66。
系譜
[編集]父母
側室
- 小林氏(春光院)
子女
- 藤堂高陳(長男)生母は小林氏(側室)
- 辰
- 冬