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肥田春充

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肥田春充

肥田 春充(ひだ はるみち、1883年12月25日 - 1956年8月24日)は、日本肥田式強健術の創始者[1]。思想家、著述家、体育家、哲学者などとして活躍。

人物

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軍服姿の肥田。椅子式運動法を考案した頃

山梨県南都留郡桂村小沼(現・西桂町小沼)において、医師川合立玄(はるつね)の五男として生をうける[1]。幼少期は病弱な上痩せ細っていたため、「茅棒」のあだ名がつけられ、2度死の宣告を受ける程の虚弱児であった。数え年18歳にして心身改造に志し、古今東西の健康法、運動法を研究実践し、西洋のウエイトトレーニング等に東洋の丹田鍛錬、氣合等を取り入れた独自の心身鍛錬法、川合式強健術(後の、肥田式強健術)を編み出す。この鍛錬は、腹のみに力を入れる丹田鍛錬、腹力をさらに押進め、腰と腹に同量の力を込め、腰腹の中心に力を込めて「腰腹同量の正中心」を鍛錬する所にその大きな特徴がある。その鍛錬によりわずか2年で、体格改造に成功[1]。さらに体力ばかりでなく頭脳も飛躍的に向上し、中央大学法科・明治大学政治科・明治大学商科・早稲田大学文学科の三大学四学科に入学する[1]。在学中は、各大学の剣道、柔道、弓道等の選手となり、明治大学では初めて柔道部を創設し、初代キャプテンとなる。

大学卒業後、処女作『実験 簡易強健術』を出版[1]、強健術を世に問う。この本はベストセラーとなり、世に強健術ブームを巻き起こす。その数ヶ月後、志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊、主計中尉となる。ここでも強健術の研鑚を欠かさず、椅子に腰掛けたままで行える「椅子運動法」等を考案する。

その後1917年(大正6年)、肥田家の婿養子となり[1]静岡県田方郡対島村八幡野(現・伊東市八幡野)に住み、ここで強健術の鍛錬に没頭するとともに、恩師押川方義らと共に国事に奔走する。1923年(大正12年)に、腰腹同量の聖中心力を悟得し[1]、精神的な悟境もいよいよ深くなり、の高僧からもその境地を認められる。またそれまで研究していた、自然療法を「天真療法」として大成させ、自身の半生と悟境を綴った主著『聖中心道 肥田式強健術 天真療法』を発表する[1]。この本において、中心力を応用した独自の「中心力抜刀術」や「中心力護身術」「中心力雄弁法」「中心練磨法」等を発表している。

太平洋戦争前夜にはこれを回避すべく大川周明などと協力し、私財を擲って奔走した。戦中には憂国の念止み難く、東條英機に終戦勧告を二度に渡って書き、自決の覚悟をするも、自身の悟境より見た「世界人類の救済」との悲願を樹てることにより、死を思い止まる。その後は、人類救済のための宗教哲学の研究に没頭し、この研究を「宇宙大学」と呼ぶ。この時の原稿は積むと人の背丈程にもなり、その一部は死後『宇宙倫理の書』として出版される。

晩年の1955年(昭和30年)には、社団法人「聖中心社」を設立し、多年研究の宗教哲学に基づく平和運動を展開するも、その設立後一年にも満たない1956年(昭和31年)8月24日、人類の前途を憂うる余り、水も取らない49日間の断食の後死去[1]。72歳没。

生涯を通じて多数の政治家軍人学者文人などと親交があり、様々な影響を与えている。主な親交があった人物として、押川方義松村介石新井奥邃二木謙三加藤時次郎、佐藤精一、中里介山徳富蘇峰村井弦斎大川周明蓮沼門三、山下信義らがあげられる。

家族

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  • 父の川合立玄は周防出身の医師[2]。川合家はもともと毛利家の家臣[2]。母のつねは父と同じ西桂村小沼の出で、春充が5歳のときに40歳で死去[2]。母没後一年以内に7人いた兄弟姉妹のうち5人が死亡[2]
  • 実兄 川合信水(山月)(1867 - 1962)は、郡是製糸株式会社に教育部を創設し、後に基督心宗を創始した宗教家、教育家である。
  • 妻の孝子は静岡県対島村八幡野(現・伊東市)の医師・肥田和三郎・松子夫妻の長女。1917年結婚[2]。妻の妹は筑波藤麿の後妻(藤麿の前妻は毛利家の娘)。

略年譜

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  • 1883年(明治16年)12月25日 山梨県南都留郡桂村小沼において、川合家の五男として誕生
  • 1888年(明治21年) 重症の麻疹にかかり、2度死の宣告を受けるも一命を取り留める
  • 1900年(明治33年)4月 心身の根本的改造に志し、古今東西の健康法、体育法を研究実践し、独自の鍛錬法を創出する
  • 1902年(明治35年)4月 2年間の鍛錬により筋骨隆々となり、中学に入学する
  • 1907年(明治40年)9月 中央大学法科、明治大学政治科、商科、早稲田大学文学科へ入学
  • 1910年(明治43年)三大学、四学科を卒業
  • 1911年(明治44年)4月 処女作『実験 簡易強健術』文栄閣 刊行 大ベストセラーとなり、各地公官庁、学校にて講演会が数多く開催される 11月 『腹力体育法』文栄閣 刊行 12月 近衛歩兵第四連隊に入営
  • 1913年(大正2年)5月 退営 この年、「二六新報」に強健術の連載を行う
  • 1914年(大正3年)3月 『心身強健術』武侠世界社 刊行
  • 1915年(大正4年)1月 父 立玄死去
  • 1916年(大正5年)8月 『強い身体を造る法』武侠世界社 刊行
  • 1917年(大正6年)2月 静岡県田方郡対島村八幡野の肥田家の婿養子となる
  • 1918年(大正7年)8月 『心身強健体格改造法』 尚文堂 刊行
  • 1920年(大正9年)6月 『強圧微動術』 尚文堂 刊行
  • 1923年(大正12年)1月 『独特なる胃腸の強健法』 尚文堂 刊行 6月 「聖中心力」を悟得し、肥田式強健術がほぼ完成する
  • 1924年(大正13年)9月 講演集『この大獅子吼を聴け』 尚文堂 刊行
  • 1925年(大正14年)10月 『健康の中心を強くする法』尚文社 刊行『川合式強健術』 尚文社 刊行
  • 1927年(昭和2年)4月 『根本的健脳法』 尚文堂 刊行
  • 1936年(昭和11年)10月 『聖中心道 肥田式強健術・天真療法』 聖中心道研究会 刊行
  • 1937年(昭和12年)3月 『講演及び随筆』 聖中心道研究会 刊行 7月 平田内蔵吉との共著『国民体育』 春陽堂 刊行
  • 1938年(昭和13年)2月 平田内蔵吉との共著『国民医術天真法』 春陽堂 刊行
  • 1939年(昭和14年) この頃より、1941年にかけて、日米戦回避のために大川周明らと奔走する
  • 1940年(昭和15年)9月 谷村金一との共著『生は死よりも強し(簡易治療宝典)』 大日本健康増進協会出版部 刊行
  • 1943年(昭和18年) 憂国のあまり、一日として怠らなかった「正中心練磨」の鍛錬を自発的に放棄し、痩せ衰える 10月 東条英機に終戦勧告を書き送る
  • 1944年(昭和19年)2月 東条英機に自決勧告の遺書を書き、自決直前に思い止まる、この時より放棄していた「正中心練磨」を再開し健康を回復する
  • 1946年(昭和21年)4月 深夜連続の「人類救済」のための真の宗教、哲学、科学の学的、体験的研究をはじめる(この研究を「宇宙大学」と呼ぶ)
  • 1952年(昭和27年)3月 『日本の使命』 信修行道(株) 刊行
  • 1955年(昭和30年)10月 肥田通夫との共著『一分間の強健法』 全国農業出版KK 刊行 11月 社団法人「聖中心社」創設
  • 1956年(昭和31年)8月24日 人類の将来を憂い、水もほとんど摂取しない49日間の完全断食の果て、死去

エピソード

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  • 竹内流免許を6ヶ月で取得した。(『一分間の強健法』P19)
  • 剣道の突きで、20貫(75kg)はある大男を、5~6間(9~11m)は吹き飛ばした。(『一分間の強健法』P20)
  • 運動場を10周すると、2位に1週分の差をつけて更に追い越した1位になった。(『一分間の強健法』P20)
  • 学校での教科は国語、漢文、法政経済を得意としており10~15分で試験の答案を書き上げたが、100点以外はとったことがなかった。(『一分間の強健法』P22)
  • 杉の八分板を足の形に踏み抜いた。(『一分間の強健法』P31)
  • 板の太い根元をかかとの形を残してへし折った。(『一分間の強健法』P31)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 肥田春充 Hida Harumichi – 肥田式強健術”. 武道・武術の総合情報サイト WEB秘伝 (2022年2月5日). 2022年8月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『肥田春充: 神通力を発現した至誠の哲人』氷川雅彦、光祥社, 2013「虚弱児が一念発起して超人へ突き抜けるまで」の項

外部リンク

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