綾部健太郎
綾部 健太郎 あやべ けんたろう | |
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生年月日 | 1890年9月6日 |
出生地 | 大分県杵築市 |
没年月日 | 1972年3月24日(81歳没) |
死没地 | 東京都新宿区 東京電力病院 |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (日本進歩党→) (改進党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 勲一等瑞宝章 紺綬褒章 杵築市名誉市民 |
第53代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1966年12月3日 - 1966年12月27日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第29-30代 運輸大臣 | |
内閣 |
第2次池田内閣第2次改造内閣 第2次池田内閣第2次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1962年7月18日 - 1964年7月18日 |
選挙区 |
(大分県第2区→) 旧大分県第2区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1932年2月20日- 1945年12月18日 1958年5月22日 - 1966年12月27日 |
綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年9月6日 - 1972年3月24日[1])は日本の政治家。衆議院議員(7期)、衆議院議長(第53代)、運輸大臣(第29・30代)。香川県出身(出生地および選挙区は大分県)。正三位勲一等。杵築市名誉市民[2]。
来歴・人物
[編集]戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(久原房之助総裁)に与した。大政翼賛会発足による政党解消後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属した。
終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄、西川貞一、依光好秋、高畠亀太郎、中井一夫、三善信房の6名のみである[3]。また綾部と同じく戦前政友会正統派に所属していた三土忠造は進歩党と連携し、進歩党が与党となった幣原内閣にも入閣したが、進歩党の結党自体には参加しなかった。その後公職追放となる[4]。追放中の1948年、梅林組に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[5]。
戦後、公職追放解除後はしばらく元外務大臣で戦前には衆議院に議席がなかった重光葵の政界入りのために自分の選挙地盤を譲って支援に回ったため国政から離れるが、重光の死後、自由民主党から国政復帰。藤山派に所属し[1]、総参謀格として重きをなす。1966年衆議院議長に就任。恬淡とした人柄で野党にも評価された。
作家の菊池寛とは旧制高松中学(現香川県立高松高等学校)以来の親友。映画『末は博士か大臣か』(1963年大映/監督島耕二、主演フランキー堺)のモデル[6]。
1957年10月、杵築市に旧市役所用地を提供した[2][7]。これにより1959年5月7日紺綬褒章受章、功績顕著として木杯一組を賜った[7]。
年譜
[編集]- 1890年9月6日 - 大分県杵築市にて出生。少年時代は香川県で過ごす。
- 1916年 - 京都帝国大学法学部卒業[6]。山口銀行(三菱UFJ銀行の前身行の一つ)、信越電力などに勤務。のち、東京電気工務所(現・東京エネシス)、東急エビス産業(現・日本農産工業)の社長を務める[6]。
- 1932年 - 第18回衆議院議員総選挙に政友会公認で立候補し初当選。以後当選7回[8](戦前4回、戦後3回)。
- 1939年 - 平沼内閣厚生参与官。政友会の分裂に際し、久原房之助や鳩山一郎とともに正統派(久原派)に属する。
- 1945年 - 鈴木貫太郎内閣海軍政務次官。海軍省顧問をしていた藤山愛一郎と知り合う。終戦後、日本進歩党の結党に参加。
- 1946年 - 戦時中に大政翼賛会総務を務めるなどしていたため公職追放。追放期間中は東京急行電鉄取締役、東急文化会館社長などを務める。
- 1951年 - 公職追放解除。その後改進党大分県連幹事長として、同じく追放を解除された重光葵の政界復帰を支援する。
- 1958年 - 衆議院議員選挙に5回目の当選。中央政界に復帰。
- 1961年 - 裁判官弾劾裁判所裁判長。
- 1962年 - 第2次池田内閣運輸大臣。杵築市名誉市民[9]
- 1963年:新東京国際空港建設候補地の選定(富里空港案)に携わる(→成田空港問題)。第3次池田内閣においても運輸大臣を継続。
- 1965年 - 春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)[9][10]
- 1966年12月3日 - 衆議院議長に就任[11]するが、同月27日に衆議院解散[12]。
- 1967年 - 新人の佐藤文生初当選のあおりを受け、第31回衆議院議員総選挙に落選[13]。その後、日本鉄道建設公団総裁に就任[1]。
- 1972年3月24日 - 閉塞性黄疸のため、東京都新宿区の東京電力病院で死去、81歳[14]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正五位から正三位に叙される[15]。
演じた俳優
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 「綾部 健太郎」 。コトバンクより2023年9月13日閲覧。
- ^ a b “綾部 健太郎(あやべ けんたろう)”. www.city.kitsuki.lg.jp. 杵築市 (2018年10月5日). 2019年5月5日閲覧。
- ^ 中谷武世 著『戦時議会史』 民族と政治社、1974年、pp.536-537
- ^ 『朝日新聞』1946年2月10日1面。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第22号 昭和23年5月20日
- ^ a b c 「綾部健太郎」 。コトバンクより2023年9月13日閲覧。
- ^ a b 『官報』第9709号162-163頁 昭和34年5月8日号
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 55頁。
- ^ a b “名誉市民”. 杵築市. 2023年9月13日閲覧。
- ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
- ^ “衆議院会議録情報 第53回国会 本会議 第2号 昭和41年12月3日”. kokkai.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年5月5日閲覧。
- ^ “衆議院会議録情報 第54回国会 本会議 第1号 昭和41年12月27日”. kokkai.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年5月5日閲覧。
- ^ この時の選挙の模様はジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』に記録されている。
- ^ “参議院会議録情報 第68回国会 議院運営委員会 第9号 昭和47年3月31日”. kokkai.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年5月5日閲覧。
- ^ 『官報』第13577号18-19頁 昭和47年3月28日号
議会 | ||
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先代 山口喜久一郎 |
衆議院議長 第53代:1966年 |
次代 石井光次郎 |
公職 | ||
先代 斎藤昇 |
運輸大臣 第29・30代:1962年 - 1964年 |
次代 松浦周太郎 |