第八飛行船

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艦歴
発注 1928年昭和3年)
起工
初飛行 1929年(昭和4年)7月23日
就役
解体 1932年(昭和7年)2月15日
性能諸元
重量
体積 7,500 m3
全長 82.3 m
全幅 15 m(最大直径)
全高 17 m
機関 三式発動機 150 hp ×2基
速度 巡航 40ノット(74.08 km/h)
最大 56ノット(103.7 km/h)
航続距離 1,800 km
上昇限度
乗員 6名

第八飛行船(だい8ひこうせん)は、大日本帝国海軍(日本海軍)が使用した国産の半硬式飛行船である。1927年昭和2年)10月に事故で失われた第六航空船[1]の代船として建造された。

「第八飛行船」は本船の固有名称であり、制式名称は「三式飛行船」という(三式飛行船は本船1隻のみ)。

概要[編集]

イタリアから購入した第六航空船が1927年(昭和2年)10月に失われたのを受け、その代船を国産することが決定され、第六航空船の図面をもとに、1928年(昭和3年)、気嚢は藤倉工業、骨格とゴンドラは三菱航空機、発動機(ダイムラー・ベンツ製130 hp発動機の改良型)は東京瓦斯電気工業に発注された。船体は第六航空船よりも強化されていた。浮揚ガスには水素が使用されており、爆発の危険性があった。ヘリウムの入手が困難であった当時、浮揚ガスに水素を用いることは一般的であり、安全性軽視と言う訳ではない。

進空式は1929年(昭和4年)7月23日霞ヶ浦で行われ、その後、各種実験や係留装置の試験に従事した。

1931年(昭和6年)3月10日には順宮厚子内親王ご誕生(3月7日)を祝って第五飛行船第九飛行船とともに東京訪問飛行を行った。

その後、3月14日から17日にかけて長時間滞空飛行を実施した。2組12名の乗員を乗せた第八飛行船は3月14日午後11時27分に離昇し、霞ヶ浦、鹿島灘付近を飛行しつづけ、17日午前11時28分、60時間1分の滞空を終えて着陸した。これは当時の半硬式飛行船滞空の世界記録であった。

この頃までに、飛行船は兵器としての価値に乏しいとの判断が下され、本船は同年11月に廃棄が決定、翌1932年(昭和7年)2月15日解体された。

脚注・参考文献[編集]

  1. ^ 日本海軍は1928年(昭和3年)3月まで飛行船のことを「航空船」と称した。(日本飛行船物語P.302)
  • 『日本飛行船物語 - 航空界の特異な航跡を辿る』秋本実(光人社NF文庫、2007年)ISBN 978-4-7698-2526-5