竹内友治郎
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竹内 友治郎(たけうち ともじろう、明治5年10月2日[1](1872年11月2日) - 昭和11年(1936年)11月10日[2])は、日本の逓信官僚、農商務次官、衆議院議員(立憲政友会)。
生涯
[編集]山梨県巨摩郡百田村(現在の南アルプス市)出身。東京法学院(現在の中央大学)卒業[3]。逓信省に入省後、高等文官試験に合格。日露戦争時に金沢郵便局長を務めていたが、当時逓信次官であった田健治郎男爵に見出され、独立第13師団(樺太出征軍)郵便部長に抜擢された[4]。その後、樺太庁第二部長、東京逓信局長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。
田健治郎が第8代台湾総督に在任中、1922年(大正11年)秋に台湾行啓が内定すると、警備に万全を期すためとして、田は斎藤実朝鮮総督と交渉の上、竹内を台湾総督府警務局長に転任させた[5]。1923年(大正12年)に田が第2次山本内閣の農商務大臣に就任すると、その下で次官となったが、田が3か月半余りで辞任すると竹内もそれに「殉死」して辞任した[6]。こうした田との繋がりについて「田男爵の腰巾着たることは有名」と評された[6]。
2度の落選を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選[4]。以後、4回当選を重ねた[2]。田中義一内閣では陸軍政務次官を務めた[2]。
1936年(昭和11年)11月10日、逝去[2]。墓所は多磨霊園(21-1-29)
栄典
[編集]著書
[編集]下記の他、著書に『議会制新論』『東眼西視録』がある[2]とされる[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、17頁。
- ^ a b c d e 衆議院・参議院 1962, p. 299(NDLJP:3000139/177)
- ^ a b c 大石末吉 1928, p. 233(NDLJP:1269137/150)
- ^ a b 加藤紫泉 1924, p. 96(NDLJP:972140/60)
- ^ 田健治郎伝記編纂会 1932, p. 496(NDLJP:1880388/298)
- ^ a b 大石末吉 1928, pp. 220–221(NDLJP:920835/118)
参考文献
[編集]- 広幡明男『大正十三年五月当選 代議士詳覧』泰山堂、1924年。全国書誌番号:42014719。(NDLJP:920835)
- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。全国書誌番号:43039162。(NDLJP:972140)
- 大石末吉『普選の勝者 代議士月旦』東京平和新報社出版部、1928年。全国書誌番号:47006245。(NDLJP:1269137)
- 田健治郎伝記編纂会 編『田健治郎伝』田健治郎伝記編纂会、1932年。全国書誌番号:53009203。(NDLJP:1880388)
- 衆議院・参議院 編『議会制度七十年史』 1巻、大蔵省印刷局、1962年。全国書誌番号:49005775。(NDLJP:3000139)