淵上澄雄
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県高山市(国府町) |
生年月日 | 1948年1月8日 |
没年月日 | 2019年12月19日(71歳没) |
身長 体重 |
180 cm 83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1965年 ドラフト3位 |
初出場 | 1967年 |
最終出場 | 1969年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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淵上 澄雄(ふちがみ すみお、1948年1月8日 - 2019年12月19日)は、岐阜県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
来歴・人物
[編集]岐阜短大付属岐阜高校では、エースとして秋の県大会優勝、東海大会ベスト4で1965年の春の選抜に出場して選手宣誓を務め、1回戦で東農大二高の小林邦彦(東農大三高監督)に完封負けを喫する[1]。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、三岐大会でも決勝に進出するが、海星高に敗退し甲子園出場を逸する。同年の岐阜国体に出場、決勝に進むが銚子商の木樽正明に抑えられ、準優勝にとどまる。
1965年ドラフト会議で大洋ホエールズから3位指名を受け入団。
1968年7月7日には中日ドラゴンズを相手に先発、8回を5安打1失点と好投しプロ初勝利。同年はローテーションの谷間ではあるが、7先発を含む25試合に登板し3勝を記録した。またイースタンリーグでは12試合登板、防御率0.13という驚異的な成績をマークしている。
1970年オフに池田重喜と共に、飯塚佳寛と平岡一郎との交換トレードでロッテオリオンズに移籍。
右の本格派で外角低めの速球に威力があり、この球でカウントを有利にした後、切れの鋭いシュートで勝負した。また大きなカーブやシンカー、ナックルも武器であった。
2019年12月19日、心不全により揖斐川町の病院で死去(71歳没)[2]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1967 | 大洋 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 11 | 2.1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 9.00 | 2.14 |
1968 | 25 | 7 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | -- | -- | .500 | 245 | 56.2 | 62 | 5 | 23 | 1 | 1 | 35 | 1 | 0 | 32 | 25 | 3.95 | 1.50 | |
1969 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 42 | 9.2 | 11 | 2 | 6 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3.60 | 1.76 | |
通算:3年 | 33 | 7 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | -- | -- | .429 | 298 | 68.2 | 78 | 8 | 29 | 1 | 1 | 40 | 1 | 0 | 38 | 31 | 4.04 | 1.56 |
背番号
[編集]- 12 (1966年)
- 49 (1967年 - 1968年)
- 28 (1969年 - 1971年)
脚注
[編集]- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 淵上 澄雄氏(ふちがみ・すみお=元プロ野球大洋投手) 岐阜新聞 2019年12月22日