浜崎勝
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 満洲国 関東州大連市 |
生年月日 | 1931年10月8日(93歳)[1][2] |
身長 体重 |
164[2] cm 58[2] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1953年 |
初出場 | 1954年4月11日[3] |
最終出場 | 1954年10月29日[3] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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浜崎 勝(はまさき まさる、1931年10月8日 - )は旧満洲国関東州大連市出身の元プロ野球選手。父は、阪急ブレーブスや高橋ユニオンズ、国鉄スワローズで監督を歴任した浜崎真二。
来歴・人物
[編集]父である真二が満洲にいる時(南満洲鉄道勤務。満洲倶楽部で都市対抗野球にて活躍していた)に、大連市にて出生。父の満洲暮らしと共に、満洲で育ち、大連第二中学校を卒業した。
1953年、真二が監督を務める阪急に入団。プロ野球史上初めての親子選手として話題になった[4]。しかし、「浜崎真二の息子」という親の七光りという評価を覆す事は出来なかった。阪急では出場機会無しに終わり、翌1954年に真二の監督移籍に伴い、新興球団の高橋に移籍。高橋では戦力不足のチーム事情[5]もあり、守備固めとして68試合に出場した。しかし、打撃センスの無さは如何ともし難く、同年末をもって現役引退した。
真二同様、体格が低かったが、真二よりは身長で10cm程度高かった程、体格は良かったと伝わっている。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1954 | 高橋 | 68 | 76 | 71 | 3 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 5 | 3 | 1 | 3 | 0 | 2 | -- | 0 | 14 | 0 | .113 | .137 | .127 | .264 |
通算:1年 | 68 | 76 | 71 | 3 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 5 | 3 | 1 | 3 | 0 | 2 | -- | 0 | 14 | 0 | .113 | .137 | .127 | .264 |
背番号
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ a b c 浜崎勝の記録
- ^ a b c 浜崎勝(わたしはかもめData館)
- ^ a b 1954年高橋・スタメンアーカイブ
- ^ 竹中半平『背番号への愛着』、P76
- ^ 1954年高橋全成績(プロ野球記録博物館のページ)