樋貝詮三
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樋貝 詮三 ひがい せんぞう | |
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生年月日 | 1890年4月3日 |
没年月日 | 1953年1月1日(62歳没) |
第37代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1946年5月22日 - 1946年8月23日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年3月11日 - 1950年6月28日 |
第4代 賠償庁長官 | |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年2月16日 - 1949年3月11日 |
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。
来歴・人物
[編集]山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。
1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて出馬し、当選する。その後、鈴木正文と自由党山梨県支部を結成する。山梨県全県区の第24回衆議院議員総選挙まで3期選出され、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙には出馬せず引退した。
樋貝は当選一回の新人議員でありながら衆議院議長に就任し、戦後改革の審議を取り仕切った。1946年6月21日、紛糾していた本会議において議長として全ての者を沈黙させる号鈴を鳴らしたが、さらに議場が紛糾してしまう事態になった。議長退任後は皇室典範委員長を経て第3次吉田内閣で国務大臣・賠償庁長官を務めた。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[1]
親族
[編集]著書
[編集]- 『恩給法原論』巌松堂書店、1922年。
- 『海商法提要』巌松堂書店、1923年。
- 『新恩給法釈義』良書普及会、1923年。
- 『昭和八年改正恩給法解説』良書普及会、1933年。
- 『海の慣習法』良書普及会、1943年。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
議会 | ||
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先代 島田俊雄 |
衆議院議長 第37代:1946年 |
次代 山崎猛 |
公職 | ||
先代 井上知治 |
賠償庁長官 第4代:1949年 |
次代 山口喜久一郎 |