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梵寿綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

梵 寿綱(ぼんじゅこう:欧文 Von Jour Caux、本名:田中 俊郎(たなかとしろう)1934年1月27日ー)は、日本の建築家造形作家思想家神秘家。出生地は東京下町浅草寺東側馬道通りで、生来の気風は典型的な江戸っ子

1974年6月より梵 寿綱(作務名)を名乗り、20名程の協働者(画家彫刻家工芸家職人シンパ)等から成る「梵寿綱と仲間たち(Von Jour Caux and his Troupe)」を組織。[[Troupeが旅役者達を意味するところから、依頼者と状況に合わせて即興劇で舞台を演じる一座に擬えて建築運動を開始。

竣工直後に舞台成果として建築を一般に公開するArt Complex(技芸統合)運動と、協働者各々の仕事を紹介する展覧会や講演会を主催するRaga Chakra(生命饗応)活動を連携させて建築美学の復権を実践。

一座の調整機関として阿釈藦那(Aatmanアートマン Studio)を組織。 通常の社会的業務である「事務」を日常的営為を自己研鑽の修行と心得て「作務」へと、 事務所名の梵一級建築士事務所(自営)を梵設計作務室(Brahmanブラフマン Architect)と改名。

「日本のガウディ異名は、The Japan Times international edition  Aug.24-30,1992:” Builder of Fantasy” の巻頭4頁特集記事中の梵 寿綱の建築的表現をガウディ建築に准えた論考、 ”Gaudi’s style, Tokyo dreams: architecture for surreal city” に由来する。


作務名:梵 寿綱の由来

バラモン教ヒンドゥー教仏教に通底する奥義書”upaniṣad (ウパニシャッド)”において奥義とされるサンスクリットの tat tvam asi (「汝は其(そ)れなり 梵我一如(ぼんがいちにょ)」は、「真我Aatmanアートマン)と天理梵天 Brahmanブラフマン)は同根である」と説く。

梵 寿綱(Von Jour Caux)の名称は、天理を意味する漢字の「(ぼん)」の音読みを”bon→von”と擬えた欧文と、養父の 戒名の「寿綱(じゅこう)」の音読みを”Jour Caux”と擬えた欧文の合成語である。

彼自身は作務名について、建築家としての自戒の念を込めて”Brahman”の漢訳である事務所名「」を名字とし、養父(稲本綱)の戒名の「寿綱」を名前として綴り合わせて、「長寿に言祝がれた浄土現世との間を繋ぐ綱渡りの綱」を象徴したと解説している。

経歴(きょうりゃく) [編集]

梵我一如において、無相の自己が有るところ有時現成(純粋な自己の本性が現れる)がある。有時には経歴(経験が連なり歴る)の性質があり、経歴とはたんなる去来ではなく、瞬間瞬間に発現し同時に瞬間瞬間に消滅していく時間である。(有時と経歴 正法眼蔵の「有時」の巻 第7文段)  

経歴・田中俊郎第一期

誕生から大東亜戦争開戦・戦中・戦後を経て大学卒業まで

田中俊郎の実父・多田重胤(ただ しげたね)は浅草の大衆演劇の脚本家で、実母・田中そめは前進座(ぜんしんざ)創設時に入団した女優で後に独立してフランスの劇作家シモン・ギャンチヨンの「戯曲マヤ(娼婦マヤ・長谷川 善雄訳東京金星堂1933年)」の帝国劇場での初演舞台(マヤ役・細川ちか子)で、14歳の少女フィフィンヌ役を務めた新劇女優の先駆けであった。後にPCL(東宝映画社の前身)の映画女優となったが俊郎の成長を見ずに夭折。

実父母は未婚であったために、田中俊郎は戸籍上は私生児と表記されたが、実母・そめの姉の浅草芸者であった田中豊惠(たなかとよえ)が養子として入籍。養父・稲本 綱(いなもと つな)は株式仲買人で、養母・田中 豊惠の生涯のパートナーとして田中俊郎を実子以上の愛情で育てたが、後に事情により結婚した正妻との間では子供に恵まれぬまま正妻は先立った。一家は牛込神楽坂に転居したが幼少時に虚弱時だった俊郎は、小学校一年から沼津の養護学園で養生したり、祖母に伴われて湯治場で養生。

1940年(昭和15年)牛込区津久戸小学年低学年に復学。ヒトラー・ユーゲントの一行30名が来日した際には、同校体育館でハイルヒトラー斉唱して歓迎。家に飾った天皇陛下の肖像写真に毎朝拝礼して、ゲートルを巻き銃剣術の稽古に励み大東亜共栄圏を夢みる軍国少年に成長。

1944年(昭和19年)小学校五年のときに、親元を離れて千葉県牛久に単身疎開。一時帰郷した神楽坂の家で東京大空襲の焼夷弾直撃を経験。そのときに天皇陛下の肖像写真を救い出そうと火中に飛び込むところを養母が必死に止め一命を拾う。

1945年(昭和20年)小学校六年のときに、養母と祖母の三人で栃木県小山市に疎開。畑仕事奉仕中に戦闘機の機銃掃射に追い回されたが一名を拾う。大東亜戦争敗戦(1945年8月15日)。象徴天皇となった国父天皇を歓喜して崇める敗戦後の風潮に不条理を覚える。

1946年(昭和21年)県立栃木中学校に入学。当時の小山市・栃木市間(両毛線約11km)は客車がなく、一年目は無蓋貨車、二年目は有蓋貨車で通学した。教育現場は混乱していて学ぶべきものがなく、方途を探って貸本屋の本を毎日一冊ずつ乱読して、図書から知識を吸収する習慣を自得。

1948年(昭和23年)養父が用意した東京都新宿区早稲田南町の家に転居し、杉並区の日本大学第二中学校3年に転入。学芸会で久米正雄の戯曲「地蔵経由来」を演出。

1949年(昭和24年)早稲田大学高等学院に入学。外国文学や戯曲、哲学書や宗教書、世界の神話や民話などを多読し、映画や演芸・演劇鑑賞に没頭。 引続き文学や哲学に傾倒するなかで、アルベール・カミュやコリン・ウイルソンの著作から、自分が「反抗的人間」であり、思想において「アウトサイダー」であると自覚。

1952年(昭和27年)早稲田大学理工学部建築科に入学。近代建築の授業に馴染まななかったが、建築美学の今井兼次・考現学の今和次郎・都市計画の石川栄耀と吉阪隆正・建築構造の内藤多仲教授等の人物像に私淑。

1956年(昭和31年)教授の指導を受けずに自力で、「空間が機能を生起する」とする美学的卒業論文「公共的生活空間」を提出し高評価を得て同大学を卒業。

主な作品[編集]

  • 1974年 東京、カーサ中目黒
  • 1975年 宮城、阿維智山荘
  • 1979年 東京、斐禮祈<ひらき>:賢者の石
  • 1983年 東京、ドラード和世陀
  • 1985年 東京、無量寿舞
  • 1989年 東京、和泉の木戸(ラポルタイズミ)
  • 1992年 東京、マインド和亜ビル(舞都和亜)

作品集[編集]

  • 伊丹潤編著『21人の手 日本建築家ドローイング集』求龍堂、1983年12月。ISBN 9784763083227 
  • 梵寿綱・羽深隆雄編集・執筆『生命の讃歌 建築家梵寿綱+羽深隆雄』美術出版社、2017年2月。ISBN 9784568600452 

脚注[編集]

外部リンク[編集]