松平隆政
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶安元年7月8日(1648年8月26日) |
死没 | 延宝元年2月4日(1673年3月22日) |
改名 | 他人丸、隆政 |
戒名 | 徳翁院仁誉儀公勇徹 |
墓所 | 天徳寺(現・東京都港区虎ノ門) |
官位 | 従五位下右近大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 出雲国松江藩、同国母里藩藩主 |
氏族 | 越前松平家(雲州家→母里家) |
父母 | 父:松平直政、母:長谷川氏 |
兄弟 | 綱隆、近栄、女子(松平直矩妻)、隆政、女子(佐竹義処妻)、直丘、ほか |
妻 | 正室:松平憲良の娘 |
子 | 養嗣子:直丘 |
松平 隆政(まつだいら たかまさ)は、江戸時代前期の大名。出雲国母里藩の初代藩主。母里松平家の祖。正室は、信濃国小諸藩藩主・松平憲良(忠憲)の娘[1][2]。
略歴[編集]
慶安元年(1648年)7月8日、松江藩藩主・松平直政の三男として生まれる[3][1][4]。母は側室・長谷川氏[1]。幼名は他人丸[5][1][4]。長兄・綱隆から偏諱を与えられて隆政(「政」は父・直政より一字を取ったもの)と名乗る[要出典]。
寛文2年(1662年)12月27日、従五位下右近大夫となる[5][1]。
寛文6年(1666年)2月3日、父が亡くなり、同年4月10日、兄・綱隆が家督を継いだ[6][7]。同月29日、綱隆から1万石を分知され、支藩・母里藩が成立した[6][4]。当初は領地ではなく蔵米による支給だった[3]。
延宝元年(1673年)2月4日、26歳で死去した[1][4]。法名は徳翁院仁誉儀公勇徹[1]。菩提所は天徳寺(現・東京都港区虎ノ門)[8]。
嗣子がなかったため、死に際し、9歳の弟・直丘(直高)を末期養子とすることを願ったが認められず、所領は宗家に返還された[9][2]。その後、綱隆が幕府に願い出たことにより、同年5月13日、直丘に家名存続が許された[9][10][2]。
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g 続群書類従完成会 1984, p. 151.
- ^ a b c 工藤 2009, p. 552.
- ^ a b 新修島根県史 1968, pp. 540–541.
- ^ a b c d 続群書類従完成会 1984, p. 130.
- ^ a b 新修島根県史 1968, p. 541.
- ^ a b 新修島根県史 1968, p. 540.
- ^ 続群書類従完成会 1984, pp. 129–130.
- ^ 木村, 藤野 & 村上 1990, p. 94.
- ^ a b 児玉 & 北島 1977, p. 330.
- ^ 木村, 藤野 & 村上 1990, p. 95.
参考文献[編集]
- 『新修島根県史』 通史篇第一巻《考古・古代・中世・近世》、島根県、1968年3月15日。NDLJP:2991551。(要登録)
- 児玉幸多、北島正元(監修)『藩史総覧』新人物往来社、1977年12月10日。
- 『徳川諸家系譜』 第四、続群書類従完成会、1984年12月5日。NDLJP:12209719。(要登録)
- 木村礎、藤野保、村上直 編『藩史大事典』 第6巻《中国・四国編》、雄山閣出版、1990年2月20日。ISBN 4-639-00941-0。
- 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年8月20日。ISBN 978-4-490-10764-7。