松平慶憲
松平慶憲 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政9年9月7日(1826年10月8日) |
死没 | 明治30年(1897年)11月8日 |
改名 | 濤次郎(幼名)、直憲(初名)、慶憲、鶴雲(号) |
墓所 | 東京都港区南青山の青山霊園 |
官位 | 従四位上侍従、兵部大輔、左近衛権中将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂、慶喜 |
藩 | 播磨明石藩主 |
氏族 | 越前松平家支流明石松平家 |
父母 |
松平斉韶、松平直恒娘季遠姫 松平斉宣 |
兄弟 |
慶憲、直正、直静、里子、渋谷教応室、 森忠儀正室ら |
妻 | 奥平昌高十一女鍼姫、古満子 |
子 | 直致、直徳 |
松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、江戸時代後期の大名。播磨国明石藩9代藩主。官位は従四位上兵部大輔、左近衛権中将。直良系越前松平家10代。
生涯
[編集]文政9年(1826年)、7代藩主・松平直韶の長男として江戸藩邸にて誕生。幼名は濤次郎。文政10年(1827年)、父・直韶は11代将軍・徳川家斉より自身の二十六男・周丸(ちかまる、後の8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)に周丸が明石藩の世嗣となる。文政13年(1830年)、母・至誠院は実子の濤次郎が次期藩主となれず苦悶のうちに死去する(一説に自殺)。天保9年(1838年)、元服し、父・斉韶(直韶)より直憲(なおのり)と名付けられる。
弘化元年(1844年)4月、8代藩主・斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日に斉宣が死去し、7月17日に家督を相続する。8月15日、12代将軍・徳川家慶に初めて御目見する。翌月、家慶の偏諱を授かり慶憲と改名する。従四位下に叙され、兵部大輔に任官する。弘化4年(1847年)、侍従に任官する。嘉永5年(1852年)、奥平昌高の十一女・鍼姫と婚姻する。
嘉永6年(1853年)、外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリーが浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌安政元年(1854年)、明石藩、神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)、鍼姫と離婚する。この年、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)、従四位上に昇叙する。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌慶応3年(1867年)、長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった15代将軍・徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の前福井藩主松平春嶽の取り成しで恭順の意を表し、城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し、藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。
明治2年(1869年)に隠居し、家督を長男・直致に譲る。明治3年(1870年)、鶴雲と号する。明治17年(1884年)、直致が病没し、次男・直徳が家督を継ぐ。この年、華族令制定により直徳が子爵となり華族に列する(のち貴族院議員)。明治30年(1897年)死去。
官歴
[編集]日付は旧暦。
- 1838年(天保9年)12月12日、元服し、諱を直憲と名乗る。
- 1844年(弘化元年)7月17日、家督を相続し、明石藩主となる。9月11日、従四位下に叙位。兵部大輔に任官。将軍徳川家慶の諱を賜わり、慶憲と名乗る。
- 1847年(弘化4年)12月16日、侍従に任官し、兵部大輔の兼任如元。
- 1856年(安政3年)12月16日、左近衛権少将に転任し、兵部大輔の兼任如元。
- 1861年(文久元年)12月16日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将・兵部大輔如元。
- 1865年(慶応元年)12月16日、左近衛権中将に転任し、兵部大輔の兼任如元。(諸侯年表では慶応2年1月16日)
- 1869年(明治2年)2月8日、隠居。
- 1870年(明治3年)3月1日、鶴雲を号す。
系譜
[編集]- 父:松平斉韶(1803-1868)
- 母:季遠姫 - 至誠院、松平直恒の娘
- 養父:松平斉宣(1825-1844)
- 正室:鍼姫 - 奥平昌高の十一女
- 側室:古満子 - 小林氏
- 長男:松平直致(1849-1884)
- 生母不明の子女
参考文献
[編集]- 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年
- 日本史籍協会編「増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧」(続日本史籍協会叢書)東京大学出版会
- 児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版