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新井章吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新井章吾
あらい しょうご
新井章吾 東陲民権史より
生年月日 1856年3月28日
安政3年2月22日
出生地 下野国都賀郡吹上村
(現・栃木県栃木市吹上町
没年月日 (1906-10-16) 1906年10月16日(50歳没)
死没地 東京府東京市本郷区
出身校 日就館(吹上藩藩校
育英館
所属政党 自由党[1][2][3]
自由倶楽部[4]
自由党[3]
東洋自由党[1][2]
大日本協会派[1]
同志倶楽部[5]
憲政党[1][2][3]
立憲政友会[1][2][3][6]

選挙区 栃木県第2区、栃木県郡部
当選回数 7回[2][3][6]
在任期間 1890年7月1日 - 1902年8月9日
1904年3月1日 - 1906年10月16日

選挙区 下都賀郡選挙区
当選回数 2回
在任期間 1882年7月 - 1884年5月
1889年3月 - 1889年7月[7]
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新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日1856年3月28日)- 明治39年(1906年10月16日[3])は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期[2][3][6]位階および勲等従四位勲四等

自由党幹部として活躍した。

経歴

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下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる[1][2][3]吹上藩[8]藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ[1][3]。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる[1][3]

明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入[9]、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる[1][3][6]。翌年、官吏侮辱罪集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける[1][2][3][6]

明治22年(1889年)の大赦後に県会議員に復帰し[1][2][3][6]第1回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から初当選を果たし、以後6期連続当選する[1]。だが、星亨との確執を機に「関東自由党」の分離や高島鞆之助と結んで薩摩との連携を模索するが上手くいかず、明治25年(1892年)5月に自由党を脱党し[1][3]、12月に同じく脱党した大井憲太郎とともに東洋自由党を結成した[1]。その後、硬六派系の諸会派を転々とする[1]。この間、明治29年(1896年)に拓殖務大臣であった高島の要請で衆議院議員の身分のまま拓殖務省北部局長に就任するが[2][6]、直後に同省の廃止が決定されて辞任した[1]。明治31年(1898年)に自由党の後身である憲政党に復帰してその後立憲政友会に合流するが[1][2][3]第7回衆議院議員総選挙で落選する。明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙で7回目の当選を果たして国政に復帰する[1]。その後、宇治川水力電気会社の創設に尽力するが[2][3]、設立直前の明治39年(1906年)に東京において51歳で急死した[1]。墓所は青山霊園1-イ22-1と、郷里である吹上町の専福寺だが、2022年現在吹上の方の墓所は無縁墳墓となっている[10]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 国史大辞典 1979
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 日本歴史大事典 2000
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本史大事典 1992
  4. ^ 栃木2区選挙結果 第1回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年6月6日閲覧。
  5. ^ 栃木2区選挙結果 第5回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年5月27日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 政治家人名事典 2003
  7. ^ 栃木県会 編『栃木県会沿革誌. 自明治12年度至明治29年度』栃木県、1898年11月27日。全国書誌番号:40021100https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784992 閲覧は自由
  8. ^ 新井の生まれる直前、吹上村に陣屋が設置されて吹上藩が成立していた。
  9. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 57頁。
  10. ^ 官報無縁墳墓

参考文献

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