岩佐氏寿
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いわさ うじとし 岩佐 氏寿 | |
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生年月日 | 1911年12月2日 |
没年月日 | 1978年11月22日(66歳没) |
出生地 | 京都府京都市北区上賀茂南大路町[1] |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1936年 - 1978年 |
岩佐 氏寿(いわさ うじとし、1911年12月2日 - 1978年11月22日)は、日本の映画監督、脚本家。
概要
[編集]京都市出身。脚本や制作を担当した作品が映画祭・映画コンクールで受賞した。同盟通信社、日本ニュース映画社、日本映画社をへて、戦後、監督としてデビュー後、「日本ニュース」企画編集を担当し、占領政策下のニュース映画のスタイルを確立[2]。主に脚本を担当するようになり、その後、企業をスポンサーとする科学技術映画、産業映画のプロデューサーとして活躍した。また、児童文学、学校劇なども手がけ、『佐久間ダム物語』(東西文明社、1956年)、『超高層ビルのあけぼの』(鹿島研究所出版会、1967年)、『二十一世紀のもぐら トンネル物語』(文研出版、1971年)などの著作がある。『キネマ旬報』などの映画雑誌、教育雑誌などにエッセイ・論文を発表した。亡くなった時は、鹿島映画(現・カジマビジョン)の専務だった。
受賞
[編集]- 脚本を担当した今井正監督の劇映画『どっこい生きてる』は第25回キネマ旬報ベスト・テン5位、第2回ブルーリボン賞4位。同じく脚本を担当した『ひとりの母の記録』(1955年、岩波映画製作所、日活配給)が、第2回教育映画祭で社会教育部門最高賞[3]。
- 製作を担当した『地下を進む都市開発 —シールド工法—』(1967年、日本技術映画社)で、教育映画祭最高賞、科学技術映画祭入選、日本産業映画コンクール奨励賞[4]。『海の中の桟橋』(1968年、日本技術映画社)で科学技術映画祭長官賞[5]。
- 脚本を担当した『超高層霞が関ビル』(1968年、日本技術映画社)で、教育映画祭最高賞、日本産業映画コンクール奨励賞[6]。
- 製作を担当した『アルプスにダムができた』(1969年、鹿島映画)と『新都心の広場 —京王プラザホテル』(1971年、鹿島映画)で、日本産業映画コンクール奨励賞。
経歴
[編集]同盟通信社から日本映画社へ
[編集]- 1936年に発足した同盟通信社のニュース映画から記録映画の世界に入る。
- 1939年頃、『同盟映画月報 近代戰の華! 戰車物語』(7分、同盟通信社)構成担当。
- 1940年、朝日、毎日、読売の各新聞社映画部と同盟通信社映画部が「社団法人日本ニュース映画社」(さらに1941年、「社団法人日本映画社」と改称・改組)に統合されたため、同社に所属。
- 1946年、国鉄労働組合がスポンサーとなった『驀進』を監督し、賃上げや最低賃金制確立を要求する闘争を記録[7]。
- 1949年、経済安定本部、商工省、農林省、油糧配給公団後援の『ぬかものがたり』(音楽:三木鶏郎、日本映画社)の脚本を担当。
フリーランスとして
[編集]- 1950年、劇映画『君たちはどう生きるか』(東映)を監督。
- 1951年、今井正監督の劇映画『どっこい生きてる』(新星映画)の脚本を担当。
- 1953年、『赤い自転車』(第一映画)の脚本を担当。
- 1955年、京極高英監督『ひとりの母の記録』(岩波映画製作所)の脚本を担当。この映画では、素人俳優を使った再現シーンがあり、ドキュメンタリー制作者の姿勢をめぐって桑野茂と論争が起きた[7]。同年、ソ連の記録映画『北極ものがたり』(1952年制作・ソ連映画輸出協会=独立映画センター=優秀映画)の日本語版解説翻訳。
- 1956年、今泉善珠監督『名犬ものがたり』(協力プロ=たんぽぽ)の脚本を担当。
- 1957年、大川博制作『北海道の大自然』(東映)編集構成
- 1963年、『森林 −北海道の国有林−』(東映教育映画部)監督・脚本。
企業映画の時代
[編集]- 1967年、『地下を進む都市開発 —シールド工法—』(日本技術映画社)製作。『霞が関147M−霞が関超高層ビル第二部−』(日本技術映画社)製作。
- 1968年、『超高層霞が関ビル』(日本技術映画社)監督・製作・脚本。同年、『海の中の桟橋』(日本技術映画社)『海のなかの桟橋−京葉シーバース−』(日本技術映画社)製作担当。
- 1969年、関川秀雄監督『超高層のあけぼの』(日本技術映画社、東映配給)脚色、製作担当。『アルプスにダムができた』(鹿島映画)製作を担当。
- 1971年、『新都心の広場 —京王プラザホテル』(鹿島映画)製作を担当。
- 1974年、「私が考えるドキュメンタリィ試論--前号登川直樹氏の論稿に対して」を『シナリオ』誌9月号に掲載。