大久保利春
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おおくぼ としはる 大久保 利春 | |
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生誕 |
1914年1月20日 日本 東京都 |
死没 | 1991年11月30日(77歳没) |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 大久保和子 |
親戚 | 大久保利通、高橋是清 |
大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。
来歴
[編集]1914年(大正3年)、大久保利賢(横浜正金銀行頭取、大久保利通八男)と和喜子(高橋是清次女)の長男として生まれた[注釈 1]。大久保利通の孫、かつ、高橋是清の孫にあたる。妻は和子(事業家の坂内虎次の娘で、与謝野馨の叔母)。姉・百合子の夫は安田一(安田財閥当主)。
同姓同名の人物に、1946年設立の時計店・宝飾品店の経営者がいる[1]。
1938年(昭和13年)東北帝国大学法科を卒業後、三和銀行に入行[2]。
戦後の1949年(昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任し、朝鮮戦争のあいだ、児玉誉士夫設立の東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた[注釈 2]。
1961年(昭和36年)、日本海外貿易の経営者として外国為替及び外国貿易管理法違反により有罪判決を受けた[5]。
1976年(昭和51年)のロッキード事件に際し、2月17日、第77回国会に証人として招致されたが、そのときには丸紅の専務であった[6]。
その後、贈賄側の一人として逮捕・起訴され、公判では大筋で検事調書通りの証言を行ったとされている。第一審判決では執行猶予付きの有罪判決が出たが、檜山廣、伊藤宏といった丸紅の他の被告に不利な証言を連発されることを恐れて控訴したとされている。
1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却。檜山が上告したため、同様に上告。
1991年(平成3年)11月30日に死去。このため公訴は棄却となった。
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ 大久保利春氏死去 ジュエルベリテオオクボ会長、2003年10月14日。四国新聞社。
- ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)お131頁
- ^ 竹森久朝 1976.
- ^ Glenn Davis and John G. Roberts 1996.
- ^ 最高裁判所 1962.
- ^ 国立国会図書館 1976.
参考文献
[編集]- 最高裁判所『最高裁判所裁判集 昭和37年6月-7月刑事第143号』最高裁判所、1962年、403頁。「最高裁判所第二小法廷 昭和36年(あ)第1186号 検察官上田次郎出席」
- 衆議院『国会会議録』国立国会図書館、1976年。「第77回国会衆議院予算委員会第15号 1976年(昭和51年)2月17日」
- 竹森久朝『見えざる政府 - 児玉誉士夫とその黒の人脈』白石書店、1976年、70-71頁。
- Glenn Davis and John G. Roberts 著、守山尚美 訳『軍隊なき占領 - ウォール街が「戦後」を演出した』新潮社、1996年、100頁。