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国鉄3380形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山陽鉄道 126(後の鉄道院 3381)

3380形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。

概要

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元は、1906年(明治39年)に山陽鉄道が自社の兵庫工場で4両を製造した[1]車軸配置2-6-2(1C1)ヴォークレイン4気筒複式飽和式タンク機関車である。概ねアメリカ合衆国の様式に則っているが、細部のデザインが変更され、近代的な形態も併せ持っていた。形式は28形、番号は125 - 128であった。

前年に同じ兵庫工場で製造されたヴォークレイン複式のテンダ機関車27形(後の鉄道院8500形)とは、各部の寸法が共通であり、後年の鉄道省C12形/C56形と同様の系列設計となっている。先従台車はビッセル式で、先輪は内側式台枠、従輪は外側式台枠であった。側水槽や後部炭庫は平皿鋲を用いて、フラッシュ仕上げとなっていた。

1907年(明治40年)、山陽鉄道は国有化されたが、しばらくは山陽鉄道時代の形式番号で使用された。その後、1909年(明治42年)には鉄道院の車両称号規程が制定され、本形式は3880形3880 - 3883)に改められた。

国有化後は一時山陰線(豊岡機関庫)で使用されたが、再び神戸機関庫に戻り、1919年(大正8年)には北海道に転出した。廃車は、いずれも1925年(大正14年)で、全車が解体となった。

海中転落事故

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本形式の3382は、神戸機関庫時代の1918年(大正7年)11月28日、加減弁とブレーキを閉め忘れていたため、自然に動き出して、留置中の5101221を押し出し、海中に転落させるという事故を起こし、川崎造船所からクレーン船を借り出して引き上げるという騒ぎになっている[2]。この事故により大破した機関車はいずれも復旧されたが、本形式は北海道へ転出となった。一説には、この事故を有耶無耶にするため、北海道に島流しにしたともいわれる[3]

主要諸元

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  • 全長 : 10,846mm
  • 全高 : 3,683mm
  • 全幅 : 2,743mm
  • 軌間 : 1,067mm
  • 車軸配置 : 2-6-2(1C1)
  • 動輪直径 : 1,270mm
  • 機関形式 : ヴォークレイン式複式蒸気機関
  • 弁装置 : スチーブンソン式アメリカ型
  • シリンダー(直径×行程) : 292mm×559mm(高圧)、483mm×559mm(低圧)
  • ボイラー圧力 : 12.7kg/cm2
  • 火格子面積 : 1.58m2
  • 全伝熱面積 : 91.1m2
    • 煙管蒸発伝熱面積 : 82.1m2
    • 火室蒸発伝熱面積 : 9.0m2
  • 小煙管(直径×長サ×数) : 44.5mm×3,302mm×178本
  • 機関車運転整備重量 : 56.22t
  • 機関車空車重量 : 44.84t
  • 機関車動輪上重量(運転整備時) : 40.64t
  • 機関車動輪軸重(第3動輪上) : 13.72t
  • 水タンク容量 : 6.71m3
  • 燃料積載量 : 1.94t
  • 機関車性能
    • シリンダ引張力 : 8,100kg(単式時)、5,930kg(複式時)
  • ブレーキ装置 : 手ブレーキ真空ブレーキ

脚注

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  1. ^ 兵庫工場では製造番号を付していなかったが、14 - 17に相当する。
  2. ^ 事故の詳細は「東海道本線神戸駅における機関車の海中墜落」『鉄道災害記事 自大正4至6年度』写真あり(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 寺島京一「機関車史のうらばなし 3」レイル1978年6月号

参考文献

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  • 臼井茂信「国鉄蒸気機関車小史」1958年、鉄道図書刊行会
  • 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 3」1972年、交友社
  • 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車I」1978年、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン刊
  • 金田茂裕「日本蒸気機関車史 私設鉄道編I」1981年、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン刊