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吉川経倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉川経倫
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享3年5月13日1746年7月1日
死没 享和3年9月7日1803年10月22日
改名 毛利吉五郎(幼名)→毛利豊房→吉川経倫→吉川入道衡山
別名 監物(通称)、永貞、衡山(号)
戒名 大乗院殿前城門朗即心円通大居士
墓所 洞泉寺の吉川家墓所(山口県岩国市横山)
幕府 江戸幕府
主君 毛利重就治親斉房
周防岩国領
氏族 大江姓毛利氏藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:毛利広豊、母:美保子(家女房)
養父:吉川経永
兄弟 毛利広矩毛利広寛毛利三助松野助紑
小笠原正良毛利就盈森豊嘉孝暁
経倫、某、毛利就馴因順、毛利吉之助、
天順土方勝幼、毛利松之助、大島義順
毛利吉助、毛利亀五郎、某、粟屋清平
笹川芳和、毛利熊吉、毛利又五郎、吉子、
鶴槌子、春子、豊子、秀子、美代子、利子、
久米子、松子、富子、源子、行子、猪野子、
和子、遊、好子、吉子、鉄子、澄子、武子、
栄子、多野子、幾子(24男23女
正室:多芽(一柳末栄の娘)
側室:高木采女の娘、粟屋盛定の娘、大崑直澄の娘
経忠、万千代、順子、吉五郎、勝子、
大島義言
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吉川 経倫(きっかわ つねとも)は、江戸時代中期の周防国岩国領7代領主。

生涯

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延享3年(1746年5月13日徳山藩5代藩主・毛利広豊の九男として江戸の今井谷邸で生まれる[1]元服後は毛利豊房と名乗った。

岩国領6代当主・吉川経永の男子がいずれも夭折したため、宝暦8年(1758年)に経倫が岩国領の継嗣として迎えられる。宝暦12年(1762年)に幕府の許可を得て経永との養子縁組が行われ、明和元年(1764年10月3日に経永が死去したため家督を継いだ。

経倫の治世は、先代までの領財政の窮乏が積み重なり、破綻寸前の危機的状況にあった。その上幕府の普請に借り出されたり、錦川では水害が発生したり、岩国の陣屋町では大火災が発生したりと苦難が相次いだ。

寛政4年(1792年)に長男の経忠に家督を譲って隠居し、翌寛政5年(1793年)には新築された隠居館の昌明館に移る。

享和3年(1803年9月7日に死去した[1]

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション