吉川経倫
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享3年5月13日(1746年7月1日) |
死没 | 享和3年9月7日(1803年10月22日) |
改名 | 毛利吉五郎(幼名)→毛利豊房→吉川経倫→吉川入道衡山 |
別名 | 監物(通称)、永貞、衡山(号) |
戒名 | 大乗院殿前城門朗即心円通大居士 |
墓所 | 洞泉寺の吉川家墓所(山口県岩国市横山) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利重就→治親→斉房 |
藩 | 周防岩国領主 |
氏族 | 大江姓毛利氏→藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 |
父:毛利広豊、母:美保子(家女房) 養父:吉川経永 |
兄弟 |
毛利広矩、毛利広寛、毛利三助、松野助紑、 小笠原正良、毛利就盈、森豊嘉、孝暁、 経倫、某、毛利就馴、因順、毛利吉之助、 天順、土方勝幼、毛利松之助、大島義順、 毛利吉助、毛利亀五郎、某、粟屋清平、 笹川芳和、毛利熊吉、毛利又五郎、吉子、 鶴槌子、春子、豊子、秀子、美代子、利子、 久米子、松子、富子、源子、行子、猪野子、 和子、遊、好子、吉子、鉄子、澄子、武子、 栄子、多野子、幾子(24男23女) |
妻 |
正室:多芽(一柳末栄の娘) 側室:高木采女の娘、粟屋盛定の娘、大崑直澄の娘 |
子 |
経忠、万千代、順子、吉五郎、勝子、 大島義言 |
吉川 経倫(きっかわ つねとも)は、江戸時代中期の周防国岩国領7代領主。
生涯
[編集]延享3年(1746年)5月13日、徳山藩5代藩主・毛利広豊の九男として江戸の今井谷邸で生まれる[1]。元服後は毛利豊房と名乗った。
岩国領6代当主・吉川経永の男子がいずれも夭折したため、宝暦8年(1758年)に経倫が岩国領の継嗣として迎えられる。宝暦12年(1762年)に幕府の許可を得て経永との養子縁組が行われ、明和元年(1764年)10月3日に経永が死去したため家督を継いだ。
経倫の治世は、先代までの領財政の窮乏が積み重なり、破綻寸前の危機的状況にあった。その上幕府の普請に借り出されたり、錦川では水害が発生したり、岩国の陣屋町では大火災が発生したりと苦難が相次いだ。
寛政4年(1792年)に長男の経忠に家督を譲って隠居し、翌寛政5年(1793年)には新築された隠居館の昌明館に移る。
系譜
[編集]- 父:毛利広豊(1709-1773) - 徳山藩5代藩主。
- 母:美保子 - 家女房
- 養父:吉川経永(1714-1764) - 岩国領6代領主。
- 正室:多芽(1755-1776) - 播磨国小野藩主・一柳末栄の娘。安永5年5月18日(1776年7月3日)に死去。享年22。周防国岩国の洞泉寺吉川家墓所に葬られる。法号は華厳院梅玉妙聯。
- 側室:高木氏(?-1824) - 高木采女の娘。文政6年12月5日(1824年1月5日)に死去。周防国玖珂郡川西村の龍護寺(後の清泰院)に葬られる。法号は梅信院現成日珠。
- 長男:吉川経忠(1766-1803) - 岩国領8代領主。
- 側室:吉川家家臣・粟屋盛定(郡右衛門)の娘。
- 側室:吉川家家臣・大崑直澄(九郎兵衛)の娘
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 43.
参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション