加藤明允
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 天明3年7月16日(1783年8月13日) |
死没 | 文化12年8月6日(1815年9月8日) |
改名 | 亀五郎、孫太郎(幼名)→明允 |
別名 | 蜃洲(号) |
戒名 | 了義院殿釋宗成 |
墓所 | 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地 |
官位 | 従五位下、能登守、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 近江水口藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 | 父:加藤明陳 母:宮辻氏 |
妻 | 正室:松平忠告の娘 |
子 | 明邦、明遠(次男)、娘(中山信守継室) |
加藤 明允(かとう あきまさ)は、近江水口藩の第6代藩主。水口藩加藤家10代。第7代藩主・加藤明陳の長男。
生涯
[編集]寛政11年(1799年)9月6日、父の隠居により家督を継いで第8代藩主となる。後桜町天皇の崩御による法要のとき、警護を行なっている。文化12年(1815年)8月6日に死去。享年33。跡を長男の明邦が継いだ。
藩政においてよりも俳人として優れ、特に松尾芭蕉の俳句に敬意を表し、大岡寺に芭蕉の句碑を建立している。
系譜
[編集]父母
- 加藤明陳(父)
- 宮辻氏 - 側室(母)
正室
- 松平忠告の娘
子女