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伊達宗利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達宗利
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永11年12月18日1635年2月5日
死没 宝永5年12月21日1709年1月31日
戒名 天梁院殿賢山紹徳大居士
官位 従四位下大膳大夫侍従遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
伊予宇和島藩
氏族 宇和島伊達氏
父母 父∶伊達秀宗
母∶朝井氏
兄弟 宗実宗時宗利、菊、萬、鶴松、
桑折宗臣宗純、徳松、宗職、竹松、松、岩松、清、宗則
松平光長の娘・稲姫
元泉氏、古谷氏、昆陽野氏、田部氏、入野氏
豊姫、三保姫、兵助、六松、多尾、
鐵千代、金十郎、富之助、栄之助、
千代之助、光、佐知、賢、
養子∶宗贇
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伊達 宗利(だて むねとし)は、江戸時代前期の大名伊予国宇和島藩2代藩主。官位従四位下大膳大夫侍従遠江守

生涯

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初代藩主・伊達秀宗の三男として誕生した。寛永16年(1639年)2月15日に元服する。長兄の宗実が病弱のため嫡子を辞し、次兄の宗時が父に先立って死去したため、明暦3年(1657年)7月21日、父の隠居により家督を継ぐ。寛文10年(1670年)から八十島親隆を検地奉行として検地制度や村役人制度を確立し、元禄元年(1688年)には紙専売制度も実施するなどして藩政の基盤を固めた。しかし藩主の居殿である浜屋敷の造営、宇和島城の大改修など出費も相次ぎ、藩財政は苦しかった。

寛文11年(1671年)に本家の仙台藩伊達騒動が起こったときには、今村善太夫ら罪人を預かっている。延宝9年(1681年)の越後騒動の際には、舅である松平光長が当事者だったこともあり、宗利が幕府と越後高田藩松平家との事後処理の窓口とされた。

元禄6年(1693年)11月14日、家督を養嗣子で娘婿の宗贇に譲って隠居し、宝永5年(1708年)12月21日に75歳で死去した。法号は天梁院殿賢山紹徳大居士。

系譜

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  • 父:伊達秀宗(1591年 - 1658年)
  • 母:朝井氏
  • 正室:稲姫 - 大通院、松平光長の娘
  • 側室:元泉氏
    • 長男:兵助 - 夭折
  • 側室:古谷氏
    • 三女:多尾 - 夭折
    • 三男:鐵千代 - 夭折
    • 六男:栄之助 - 夭折
  • 側室:昆陽野氏
    • 次男:六松 - 夭折
    • 四男:金十郎 - 夭折、仙台伊達綱村の嗣子内定後に早世
    • 七男:千代之助 - 夭折
  • 側室:田部氏
  • 側室:入野氏
    • 五女:佐知 - 夭折
  • 養子

参考文献

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  • 近代史文庫宇和島研究会『家中由緒書 上』(近代史文庫宇和島研究会、1976年)
  • 宇神幸男『シリーズ藩物語 宇和島藩』(現代書館、2011年)
  • 絵本『伊達宗利の娘 豊姫物語〜家と故郷つなぐ「あんず」の縁〜』(宇和島信用金庫 企画制作、2017年)

関連項目

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外部リンク

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