伊藤基隆
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伊藤 基隆 いとう もとたか | |
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生年月日 | 1938年10月25日 |
出生地 | 日本 群馬県 |
没年月日 | 2017年7月11日(78歳没) |
死没地 | 日本 群馬県高崎市 |
出身校 | 群馬県立富岡高等学校 |
所属政党 |
(日本社会党→) (社会民主党→) 民主党 |
称号 |
旭日中綬章 従四位 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1995年7月23日 - 2007年7月29日 |
伊藤 基隆(いとう もとたか、1938年10月25日 - 2017年7月11日[1])は、日本の政治家。参議院議員(2期)を歴任。会派は民主党・新緑風会。比例代表選出。参議院民主党国対委員長を務めた。位階は従四位。
人物
[編集]群馬県出身。群馬県立富岡高等学校卒業。
田辺誠の実質的な後継者である。全逓書記長在任時の1990年、郵政反マル生闘争における被処分組合員の扱いを巡って、郵政省(当時)との裏交渉で「職場復帰の道が開かれた」として、1991年に処分撤回を求めた裁判を取り下げたが、省は誰一人として被処分者を再雇用しなかった。そればかりか、再雇用されなかった被処分組合員全員を組合組織から追放という結末を演じている[2]。その後の千葉大会における委員長選挙で、不信任票が45%に達しながらも、辛うじて委員長に就任した過去[3]を持つ。
2004年の年金未納問題の際には国民年金が3年2か月間未納であったことが判明する[4]。
2007年の第21回参議院議員通常選挙には立候補せず、任期満了をもって政界を引退した。
2017年7月11日、群馬県高崎市の病院で肺炎のため死去[1]。78歳没。没後従四位に追叙される[6]。
経歴
[編集]- 1957年(昭和32年) - 初級職国家公務員となり郵政研修所入所。
- 1958年(昭和33年) - 群馬県一ノ宮郵便局入局。
- 1970年(昭和45年) - 全逓群馬地区本部専従役員。
- 1974年(昭和49年) - 全逓中央執行委員。
- 1988年(昭和63年) - 全逓書記長。
- 1991年(平成3年) - 全逓中央執行委員長。
- 1993年(平成5年) - 国際郵便電信電話労連(PTTI)副会長。
- 1995年(平成7年) - 社会党公認で参議院議員に初当選。
- 1996年(平成8年) - 民主党結成に参加。
- 1998年(平成10年) - 民主党副幹事長。
- 2000年(平成12年) - 参議院財政金融委員長。
- 2001年(平成13年) - 参議院選挙に再選。
- 2007年(平成19年) - 政界引退。
- 2017年(平成29年) - 死去[1]。
政策・主張
[編集]- 1999年、国旗及び国歌に関する法律案の参議院本会議における採決で反対票を投じた。
主な著書
[編集]- 「こちら郵便局―公平安心社会の創造へ―」
- 『勤倹貯蓄を奨励する歌』亜紀書房、2002年4月1日。ISBN 4750502014。
脚注
[編集]- ^ a b c “元民主党参院議員の伊藤基隆氏死去”. 愛媛新聞 (2017年7月11日). 2017年7月11日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 4・28反処分の経過[リンク切れ]
- ^ 全逓新聞1991年9月11日付 定期全国大会報告
- ^ 党所属国会議員の国民年金保険料の納付状況について 民主党メールマガジン 2004年5月13日 2014年4月26日閲覧
- ^ “中綬章受章者の顔触れ(1)”. 四国新聞社 (2008年11月3日). 2023年6月16日閲覧。
- ^ 『官報』第7079号(平成29年8月10日)10頁「叙位・叙勲」
議会 | ||
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先代 平田健二 |
参議院財政金融委員長 2000年 - 2001年 |
次代 山下八洲夫 |