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中川久忠

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中川久忠
中川久忠像(個人蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年2月24日1697年3月16日
死没 寛保2年10月13日1742年11月9日
改名 万之助(幼名)、久忠
戒名 雲外了山通玄院
墓所 大分県竹田市の城北町の碧雲寺
官位 従五位下内膳正
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
豊後岡藩
氏族 中川氏
父母 中川久通酒井忠清の6女・紀伊姫
兄弟 主膳、亀次郎、久忠、厚岸院、藤堂高敏正室、秋月種弘正室
正室松平頼豊の養女
養子久慶
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中川 久忠(なかがわ ひさただ)は、豊後国岡藩の第6代藩主

略歴

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元禄10年(1697年)2月24日、第5代藩主・中川久通の3男として生まれる。兄の早世で世子となり、宝永5年(1708年)からは執政代行(名代)として父と共に二元政治を行なった。宝永7年(1710年)の父の死去により家督を継いだ。

正徳元年(1711年)、従五位下、内膳正に叙任する。藩政においては正徳3年(1713年)の大火、享保9年(1724年)の大旱魃による3万5000石の被害、享保17年(1732年)の雨、虫害による飢饉などで財政難に見舞われた。享保11年(1726年)には藩校由学館の前身である輔仁堂を創設する。

寛保2年(1742年)10月13日に死去した。享年46。跡を養子の久慶が継いだ。

系譜

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