三井高徳
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三井 高徳(みつい たかのり、1874年(明治7年)11月16日[1] - 1937年(昭和12年)1月7日[1]) は、日本の実業家、男爵[2]。東神倉庫社長、三井鉱山代表取締役、三井合名監査役、三井物産監査役等を務めた。族籍は京都府華族[2]。
人物・経歴
[編集]三井高弘(八郎次郎)の長男[2]。父の死去に伴い1919年10月30日に男爵を襲爵した[3]。1922年から東神倉庫社長を務め[4]、名古屋出張所の開設などにあたった[5]。三井物産監査役、三井呉服店監査役、三井鉱山代表取締役[6]、三井合名監査役等も務めた[7]。また、円山応挙に私淑し日本画を書いた[6]。1937年死去[8]。
家族・親族
[編集]- 三井家
- 祖父・高福(1808年 - 1885年)
- 父・高弘(八郎次郎[2]、1849年 - 1919年、三井物産社長、男爵)
- 継母・照子(1860年 - ?、侯爵伊達宗彰の大叔母)
- 妻(1880年 - ?、子爵田村丕顕の妹)[2]
- 長男・高陽[9](1900年 - 1983年、実業家、交通史研究家)
著書
[編集]- 『南山遺稿』三井高陽、1938年。
- 『陶工永楽伝 : 和全翁詳伝』三井高陽、1939年。
脚注
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、687頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』ミ3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月31日閲覧。
- ^ 『官報』第2173号、大正8年11月1日。
- ^ 「三井倉庫(株)『三井倉庫八十年史』(1989.12)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井倉庫(株)『三井倉庫五十年史』(1961.03)」渋沢社史データベース
- ^ a b 「軸装 三井高徳(画) 「十雀に旭」 絹本横物 三井高陽箱書 特上表具」古美術ささき
- ^ 日本文化宣揚に東欧と握手の旅巨万の寄付を惜しみなく各国団体と連絡隠れた使節三井高陽氏東京朝日新聞 1935.5.19 (昭和10)(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 文化(3-046))
- ^ 三井高徳美術人名辞典の解説
- ^ 三井壽太郞 (男性)日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学)
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 三井高弘 |
男爵 三井十一家南家第2代 1919年 - 1937年 |
次代 三井高陽 |
ビジネス | ||
先代 三井高信 |
東神倉庫社長(のちの会長) 1922年 - 1931年 |
次代 福井菊三郎 |