ユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ
ユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ Józef Dowbor-Muśnicki | |
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生誕 | 1867年10月25日 ロシア帝国, ポーランド立憲王国ラドム県ガルブフ |
死没 | 1937年10月26日 (70歳没) ポーランド第二共和国ポズナン県バトロヴォ |
軍歴 | 1884–1920 |
最終階級 | 将軍 |
戦闘 | 日露戦争, 第1次世界大戦, ロシア内戦, ヴィエルコポルスカ蜂起 (1918年–1919年) |
ユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ(Józef Dowbór-Muśnicki;1867年10月25日 - 1937年10月28日)は、ポーランド、帝政ロシアの軍人。ポーランド・ソビエト戦争時のポーランド軍総司令官。ロシア帝国軍では中将まで昇進した。
経歴
[編集]ポーランドのサンドミェシュ郡ガルブフの貴族出身。1888年、第2コンスタンチン学校を卒業。
1902年、ニコラエフ参謀本部アカデミーを卒業。第1シベリア軍団の参謀将校として、日露戦争に従軍。1906年、イルクーツク軍管区参謀部先任副官。1908年、第10軍団参謀部附属の委任参謀将校。1910年、第11歩兵師団参謀長。1912年、第7歩兵師団参謀長。
第一次世界大戦勃発と共に、第14シベリア狙撃連隊長となり、四等聖ゲオルギー勲章を受章。1915年9月から第1軍司令官附属の委任将官。1916年2月から第123歩兵師団長、同年11月から第38歩兵師団長。1917年1月、第1軍参謀長代行に任命。二月革命後の1917年4月、第38軍団長に任命。同年8月、臨時政府は民族別の軍団編成に期待をかけ、ドヴブル=ムシニツキはポーランド軍団(第1、第2、第3ポーランド師団、約2万5千人)の編成を委任された。
ロシア内戦時、1918年1月に反ソ蜂起を起こして白軍に加わり、ポーランドへの併合を目的としてロガチェフ、ジュロビン等白ロシアの都市を占領した。1918年1月、赤軍により撃破されたが、オーストリア軍、ドイツ軍、白ロシア・ラーダの反ソ部隊、ポーランド軍団の支援を受けミンスクを奪取した。ドイツ軍は、白ロシアの占領のためにドヴブル=ムシニツキの部隊を利用した。
1918年5月、部隊を解散して、ポーランドに帰国。同年11月、ポーランド国籍を取得し、ポーランド軍総司令官に任命され、ポーランド・ソビエト戦争において西白ロシアへの侵攻を指揮した。ユゼフ・ピウスツキの支持者でもあったが、1919年2月に総司令官から解任された。1920年に退役。
家族
[編集]ドヴブル=ムシニツキには2人の息子、ゲディミンとオルギュルド、そして2人の娘、ヤニナとアグネシュカがいた[1]。ゲデュミンは1930年代にフランスへ移民、オルギュルドは第二次大戦前に自殺し[2]、2人の娘は第二次大戦で処刑された。ヤニナはカティンの森事件でソ連のNKVDにより殺害された人々のうち、唯一の女性であった[3]。アグネシュカはポーランドの反独闘争のメンバーで、ドイツの占領軍に逮捕され、ワルシャワのパヴィアク刑務所に収監されたのち、パルミリの虐殺で命を落とした[4]。