フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
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フランツ・カール Franz Karl | |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |
フランツ・カール(撮影日不明) | |
全名 |
Franz Karl Joseph フランツ・カール・ヨーゼフ |
称号 | オーストリア大公 |
出生 |
1802年12月7日 ハプスブルク帝国、ウィーン |
死去 |
1878年3月8日(75歳没) オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
埋葬 | オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂 |
配偶者 | ゾフィー・フォン・バイエルン |
子女 |
フランツ・ヨーゼフ1世 マクシミリアン カール・ルートヴィヒ マリア・アンナ ルートヴィヒ・ヴィクトル |
家名 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
父親 | フランツ2世 |
母親 | マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
フランツ・カール・フォン・エスターライヒ(Franz Karl von Österreich, 1802年12月7日 - 1878年3月8日)は、オーストリア帝国の皇族。オーストリア大公。神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の三男で、全名はフランツ・カール・ヨーゼフ(Franz Karl Joseph)。息子にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やメキシコ皇帝マクシミリアンがいる。
生涯
[編集]1802年12月7日、フランツ・カールはフランツ2世とその2人目の妃であったマリア・テレジアの間に第9子としてウィーンで生まれた。
政治的野心とは無縁の人物で、長兄フェルディナント1世が1848年に退位した際は帝位継承権第1位であったにもかかわらず即位を辞退し、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位を譲っている。一方で、文化活動には熱心で、リンツにあるオーバーエスターライヒ州立博物館の "Francisco-Carolinum" は支援者であった彼を記念して名付けられたものである。
フランツ・カールは兄や長男には及ばないものの長命で、1878年3月8日にウィーンにおいて75歳で死去した。遺骨はウィーン・カプツィーナー教会の皇帝納骨堂(カイザーグルフト)に収められている。
子女
[編集]フランツ・カールはバイエルン王マクシミリアン1世の王女ゾフィーと1824年11月4日にウィーンで結婚した。彼女との間には以下の四男一女をもうけた。
- フランツ・ヨーゼフ・カール (1830年 - 1916年) - オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
- フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ (1832年 - 1867年) - メキシコ皇帝マクシミリアン1世
- カール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・マリア (1833年 - 1896年) - フランツ・フェルディナント大公の父、オーストリア皇帝カール1世の祖父
- マリア・アンナ・カロリーナ・ピア (1835年 - 1840年)
- 男子死産 (1840年)
- ルートヴィヒ・ヴィクトル・ヨーゼフ・アントン (1842年 - 1919年)
系図
[編集]フランツ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント1世 | フランツ・カール | ||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・ヨーゼフ1世 | (メキシコ皇帝) マクシミリアン | カール・ルートヴィヒ | |||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ | フランツ・フェルディナント | オットー | |||||||||||||||||||||||||||
(貴賤結婚) | カール1世 | ||||||||||||||||||||||||||||
オットー | |||||||||||||||||||||||||||||
カール | |||||||||||||||||||||||||||||