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ノート:加藤隼戦闘隊

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大日本帝国と日本国はべつの国ではない。旧軍と自衛隊の違いなど国内問題にすぎない。-114.51.151.183 2010年3月3日 (水) 10:42 (UTC)[返信]

成立時期と歌詞について[編集]

独自研究じゃないですね。たんなる事実関係を述べているだけです。もともと、一般共通の認識として戦隊歌は加藤隊長のことを歌ったものとの認識があります。そして、それは間違いである。ということが最初の記事の記述です。

ところが黒江氏の本の前書きに堂々と書いてる人(ビルマ航空作戦記録映画のカメラ担当の高木俊郎氏の中では事実だろう)がいるから問題です。違うならのせるんだろうか?というのが、私の疑問です。この問題は、白黒写真で「写真のりんごは赤い」という資料と「りんごの写真は黒い」との二つの資料があることの解説(作者は誰か?)でしかありませんし、その資料は出しています。問題は黒江氏が作ったのか?ということです。私は違うんじゃないかと思います(むしろ誤りだと思う)が、あまりにはっきり黒江氏の「隼戦闘機隊」の前書きに書いてあるので、怪しいけれども、その記述をいれただけです。

七度は度々の意味ですが、7度目の感状は当然のことについてのくどくどしい説明を「くどい」と書き直すのは理解できますが、要出典とするのは全く理解できません。この部分の歌詞は映画では「七度重なる感状の、勲の影に涙あり、ああ今は無き武士の」の部分を「加藤隊長戦死への7枚目の感状、ああ今はなき加藤隊長の戦死」と関連付けさせて効果を高めています。しかし、これはおそらく違うでしょう。この関連付けについて疑問があるなら、独自研究だというなら消去すればよいでしょう。

「1941年元日に公開されたニュース映画で広く知れ渡るようになったとする説」はどのニュース映画かわからないのですが、少なくともこの時期なら「隼」は存在していません。要出典は本来そいう主要な事実を明らかにするために「いつのどのニュース映画?」として入れるべきものでしょう(そして出典がないとして消すと、黒江氏作成により傾いてしまう)。あなたが気に入らなければあなたが書き直すのは自由です。おかしいと思う文章は直してください。--横見会話2012年5月3日 (木) 20:27 (UTC)[返信]

出典のない文章は削除しておきましたが、要出典の範囲を意味もなく適当に線引きするのはやめてください。--横見会話2012年5月3日 (木) 20:52 (UTC)[返信]

成立時期部分について、要出典タグを貼らせて頂いた者です。内容がわかりにくいというクレームを会話ページのほうに頂きましたので、その点について説明させて頂きます。私が出典を求める理由は一つで、○○という成立時期ならば歌詞は○○である可能性がある、他方、△△ならば△△である可能性がある、とやっていくのはまさに論じている、批評しているに他ならず、そういう部分には「誰か論じているのか」という出典を書かねば独自研究であると考えるからです。ただ、その反面で興味深い話ではあったので、是非残したいと思い要出典を貼らせて頂きました。ただ、当該箇所は既に削除されてしまったようですね…私のノートや編集履歴のコメント欄で議論を呼びかけておきながら、わずか数時間で合意なく当該箇所を編集するというのは初めてのケースで少し戸惑っておりますが、当該箇所は独自研究であり削除すべきという合意が形成された、という理解でいいんでしょうか。--machine_gun会話2012年5月4日 (金) 01:53 (UTC)[返信]
本来この記述は出典が不明なので、私は項目ごと削除するべきだと考えました。理由は、64戦隊歌と映画音楽の加藤隼戦闘隊の歌は文化的には別物だからです(だから「暖流」が軍歌でないのと同様に軍歌の分類にも疑問符はつきます)。とにかく、国民的な推察と伝えられる事実があまりにも違うからです。この歌は当然、隼、加藤隊長、軍神加藤、の歌であるとの思い込みがあります。そして、それを裏付ける資料として黒江氏が1942年に書いたとの証言があること(実は複数)、そして、もとの原作者についての出典がここにないためです。
しかし、歌の隼も加藤隊長も、歌詞とは本来関係ないのは多分事実です(手元にないので、あげられませんでしたが別の搭乗員の手記にはそうあります)。しかし、戦時中に黒江氏の名前をだせるかな?と考えたのが、作者への疑問としては残ります。そのため、とりあえず削除はしましたが、当該箇所は独自研究であり削除すべきという理由においての合意は形成されていません。本来資料に基づいた横見の記述をルールにもとづいて残せば、記事が歪になるからです。
単にある事実を併記したばあい、それを独自研究と考えるのはMachine gunさんの偏見でしかありません。 Machine gunさんが上記のような考察をして疑義を提起されるならともかく、Machine gunさん個人が何を考えてもなんの意味も理由にもなりません。評論といえなくもないですが、片方は評論、片方は史実で、その併記を議論と考えるのは当方に理解はできません。
「「誰か論じているのか」という出典を書かねば独自研究であると考えるからです」が理由だそうですが、二つの事実の併記が片方は映画による国民的な思い込み、もう片方は当事者達の証言のつなぎ合わせを書いているからで、議論の手法に見えるとして表記の訂正を行なうことと、評論であると結論づけて評論があることへの出典を要求することは違います。
さらに場合分けができないと要求は過剰なものとなり投稿上の軋轢の製造にしかなりません。是非残したいと思うのも個人の欲求であり、記事に貢献したいのであれば、不明点の明確な指摘程度はあってしかるべきでしょう。しかるに、記事内に不可視化していい加減な要求はこまります。つまり、問題点は今回出典が必要なのは横見の投稿ではなく、その前の投稿です。しかも、横見の投稿を残すと記事は歪なものとなります。それをわかった上での出典要求なのでしょうか?私が驚いているのはこの点です。
今回Machine gunさん指摘の出典範囲について、この正当性についてはなんの説明もありません。Machine gunさんは投稿の技法への個人の不満を、投稿内容の真実性に代えて書いています。Machine gunさんの今回の説明では、範囲の具体的な確定の説明にはなっていないと考えます。とにかく出典範囲をいい加減にひろげるとその範囲全てが削除されることになりかねません。他の記事でも、この記事でもこれをやればどうなるか?ということです。出典要求は個人の疑問の解決や記事内容の合理的削除のためにおこなうものではなく、記述内容の事実の部分への保証の要求です。結論として削除が行なわれればMachine gunさんの広範囲な出典要求は、出典のある「疑問のある事実」のみを残すことになり、不正(エラー)な要求と言わざるを得ません。また、こういう「国民的思い込み」の出典は探せばあるので、もしそれを誰かが出典を提出すれば(映画音楽を「加藤隊長の歌」とする映画の本は読んだ記憶があります)かなりマズイことになるでしょう。当方の要求は要出典を差し戻すことです。評論に思えるならその部分は書き直してください。--横見会話2012年5月4日 (金) 03:59 (UTC)[返信]
独自研究と言うのは、私の偏見である、と横見さんは仰っていますが、これは私が勝手に定義しているものではなく、Wikipediaの公式方針「Wikipedia:独自研究は載せない」において、「既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判の良い資料を明記せずに加筆する」と定義されています。ある説に従えば○○という可能性がある、というのはまさに分析にあたりますから資料がなければ当該箇所は独自研究であり、そうではないとするならば、こうした歌詞中の隼=一式戦である、や、3番の歌詞は加藤建夫氏ではなく戦隊の戦死者を歌ったものであるとする、出典が必要になるものです。
横見さんは問題点は今回出典が必要なのは横見の投稿ではなく、その前の投稿です。しかも、横見の投稿を残すと記事は歪なものとなります。それをわかった上での出典要求なのでしょうか?私が驚いているのはこの点です。と仰っていますが、誰の投稿などということはどうでもいいことです。別に私は横見さんに出典を求めたのではなく、広くウィキペディアン全体に対して出典を求めています。誰も出典を提示できず、それによって、出典のない独自研究部分が取り除かれて、他の部分までは不正確になる、というのならば、それは編集対応するべきことでしょう。もし疑問のある事実とするならば、出典の信頼性に対して意見すればいいでしょう。出典の信頼性もまた公式方針で求められていることですから。そうではなく、他の部分が不正確になるから出典を求めてはいけない、というのはWikipediaの公式方針を無視した、本末転倒な話です。
最後に。横見さんは『Machine gunさんは投稿の技法への個人の不満、投稿内容の真実性に代えて書いています』と私があたかも議論タグを乱用して個人の不満をぶつけているという事実があるように述べておられますが、これは事実ではなく、憶測で荒らしまがいのことをする投稿者と言われるのは心外です。この部分については撤回と謝罪を求めます。--machine_gun会話2012年5月4日 (金) 04:43 (UTC)[返信]

>「既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判の良い資料を明記せずに加筆する」と定義されています。ある説に従えば○○という可能性がある、というのはまさに分析にあたりますから資料がなければ当該箇所は独自研究であり、そうではないとするならば、こうした歌詞中の隼=一式戦である、や、3番の歌詞は加藤建夫氏ではなく戦隊の戦死者を歌ったものであるとする、出典が必要になるものです。

これだけかけば十分だと思いますけどね。当方の反論として、「「既存の事実、理念、意見、論証を分析・合成するような記述」ではな「事実の解説を単に併記しただけで、事実の解説や詳説は投稿の基本行為だからだから問題はない」です。ただそう見えても見えなくても変更は可能です。

ただ、話のすりかえはやめてください。Machine gunさんが、もしMachine gunさんの望む編集を誰かに行なわせたければ、指定した範囲は誤りです。つまり

  • 作詞:飛行第64戦隊所属 田中林平准尉
  • 作曲:南支派遣軍軍楽隊所属 原田喜一軍曹、岡野正幸軍曹(4番の旋律のみ)

も出典の必要な項目に加えて、同時に戦隊歌時代と挿入歌の区別まで要求するべきです(成立年代が全然違ってくるし、出典があってもなくてもこの重要な1行「作詞 飛行第64戦隊所属 田中林平准尉」は消えてしまう可能性がある。)。Machine gunさんは「(消去が正しいと考え)、その反面で興味深い話ではあったので、是非残したいと思い要出典を貼らせて頂きました。」というのは後付け理論だし、Machine gunさんのたんなる好みによる編集であると私は考えます。Machine gunさんは全て理解してやっているらしいことを弁明していますが、もしそうならかなり問題だと思います。おそらく、タグ張り付け当時は内容などを考えず「独自研究だ」との思いつきだけで適当に範囲を指定してしまったのだと私は考えます(それは有り勝ちなのかもしれないが)。そもそも、Machine gunさんが問題にする点は、記述を変更すればWikipediaの公式方針は簡単にクリアーできる問題でしたが、その気持ちは当初よりないようです。また、広くウィキペディアン全体に対して出典を求めることは正しいことですが、同時にだれもが一定の時間後削除も可能です。かなり無責任な他力本願の希望ですが、その結果の残置部分は出典のない作詞、作曲者と、出典のある作詞者とその成立時期のみで、しかも内容は矛盾します。ここでだれかがWikipediaの公式方針を遵守したら「事実と違う可能性の記事がのこった。」という、本末転倒な話にしても問題ないというのがMachine gunさんの見解です。Machine gunさんが本来するべきは、作詞:飛行第64戦隊所属 田中林平准尉の出典を求めることだけでよかった筈です。そしてこれをやらずに他の多くの部分での出典を適当な範囲で求め、記事は破壊の危機にひんしたわけです。なお当方は求めてはいけないのではなく、もとめるべきものが違うといっています。--横見会話2012年5月4日 (金) 08:27 (UTC)[返信]

事実の解説を単に併記しただけで、事実の解説や詳説は投稿の基本行為だからだから問題はない」についてですが、可能性を論じることは事実の解説ではありません。横見さんの考えに従って可能性を論じることが事実の解説であるならば、横見さんご自身が「無茶苦茶」と仰った、感状が与えられたことを失念している件についても、事実の解説として「終戦時に焼却処分などで多数の資料が失われたこともあり、感状を受けた資料が失われている可能性もある」というように書くことも可能になります。このように、無数に存在する可能性について、なんでも事実の解説として書けてしまうわけですから、今回の「可能性を論じることは事実の解説」という考え方はWikipediaの公式方針と相容れないものとなります。更に蛇足ながら申し上げると、仮に「事実の解説」であったとしても、その内容に検証可能性が無ければ、独自研究あるいは非中立的として、出典を求められることは何らおかしなことではありません。その事実が、その解説であっているのかどうかということも検証可能でなければならないはずですから。ですから、横見さんの仰る「事実の解説」とは、二重の意味で、今回、出典を求めたのが誤った行為であった、という根拠になりえません。
次に指定した範囲が誤りだった、という点。二行も含めておくべきだった、と仰いますが、なぜその二行だけを抜き出されたのでしょうか?その下の行にはまさに「JASRAC管理著作物」とあります。これはどう見ても、上の二行に書かれている作詞作曲者はJASRACが著作権者としている、としか読めないでしょう。なぜそれを私の立場に立てば、そこも含めて、というかむしろそこだけを要出典とすべきとされるのか、横見さんが仰っていることが理解できません。
Wikipediaの公式方針を遵守したら「事実と違う可能性の記事がのこった。」という、本末転倒な話にしても問題ないというのがMachine gunさんの見解」と仰っている点についてなのですが、その通りです。私は仮に出典のある文章だけを残した結果として、事実と違う可能性の記事となってもやむを得ないと思っております。これは私の手前勝手な考えではなく、Wikipedia:検証可能性に明記されている、公式方針による考え方です。ですから、横見さんの仰っている、私がそのような危機に本記事を晒した張本人である、というのは全く以て同意できないものです。
最後に。やや順番は前後しましたが、「好みによる編集」「思い付きだけで適当に」などとレッテルを張るのはやめて頂けますか?それはあくまで横見さんの憶測に過ぎないもので、根拠もなく私を悪質な編集者と決めつける誹謗中傷の類です。Wikipedia:個人攻撃はしないを見て頂ければわかりますが、個人攻撃の一例として「△△は悪い編集者である」と述べるということが挙がっておりますが、まさにこれに当てはまります。現段階ではただ感情的になって筆が滑ったのだろうと思っておりますが、これ以上黙殺され、更に同じような誹謗中傷が続くのであれば、悪意をもって誹謗中傷しているとしか思えなくなります。--machine_gun会話2012年5月6日 (日) 13:11 (UTC)[返信]
まずMachine gunさんの名誉感情についてこの場で云々するのはやめて下さい。この場でそれを要求することはできません。
ところで、Machine gunさんのノートでの通信で、資料は持っている、知っているという態度から、私が最低限ご存知かと思い説明をはしょったのでお分かりにならなかったようです。
>「JASRAC管理著作物」とあります。これはどう見ても、上の二行に書かれている作詞作曲者はJASRACが著作権者としている、としか読めないでしょう。なぜそれを私の立場に立てば、そこも含めて、というかむしろそこだけを要出典とすべきとされるのか、横見さんが仰っていることが理解できません。
軍歌「加藤隼戦闘隊」の項目に問題があります。一番の理由は64戦隊歌と映画挿入歌の「加藤隼戦闘隊」を混同していることです。JASRAC管理著作物は「64戦隊歌」ではなく、映画やレコードで流れた軍歌「加藤隼戦闘隊」のことです。それらが同じものとされないかぎり、出典が必要なのは当然です。
それはともかく、おおよその事実は、64戦対歌(加藤部隊以前の戦隊歌)は作詞は田中林平准尉です。しかし、加藤隊長就任後の黒江氏であるとの話があります。真実はわかりません。しかし、映画「加藤隼戦闘隊」の中の歌は「加藤隊長の率いる隼戦闘機が主力の加藤部隊」の歌です。また当時の映画を見た人も当然「加藤隊長の部隊の歌」だと考えていました。このような社会の認識と違う記事を書く場合には正確性がよりもとめられます。つまり、「64戦隊歌は加藤部隊長就任以前に田中林平准尉が作った。しかし、映画「加藤隼戦闘隊」でこの歌は映画のために作られた加藤部隊長の64戦隊の歌であると現在まで考えられている。しかも、それを黒江氏が作ったという説もある。」と書かなくてはならないものです(この点私は今何に書いてあるか知ってるが、資料が手元にないので書けない)。しかし、完全に裏づけの資料がなければ、少なくとも、両方併記しなければ記事はウソになります(あっても真実かどうかはわからない)。そこで、私はとりあえず両説併記の形をとったわけです(文章はかなり不味いですけどね。)。
Machine gunさんがルールを無視してるとは書いていません。しかし、ルールは正確な記事を書くためのものです。ルールに基づいておかしな記事ができれば、そのルールの適用があやまりとなります(適用ね!)。したがって、その行為は結果として記事の破壊行為(結果ね!)です。知ってやれば故意であり、その場合は事実と違う記事をのせる行為であり(記事への破壊活動)が目的となり投稿の資格はありません。知らなければ過失ですが、それでも仕方がないとの態度には非常な問題があるでしょう。なぜなら、投稿者は読者と事件の当事者に対して重い責任をもつからです。
そのような場合のいちばん良い対処の方法は、よく知らない事がらへの無用な手出しは有害になるとして謙抑的な行動をされることだと思います。「ルールを守って記事破壊」が正しい、仕方がないと言う態度は誤りです。そもそも、その事柄についてよく知らない人の投稿をそのルールは予想していないという前提があると思います。
さて、Machine gunさんへの説明はこれでオシマイです。今回の対立の根本はMachine gunさんはルールに基づいた記事を書かせたいし、私は事実を記事にしたい、とのスタンスの違いでしょう。それについてMachine gunさんに不満があっても、他のところでだれかとやってください。既に記事が訂正されている以上、独自研究につい云々する必要はなくなっている筈です。あなたの独自研究への要求はすべて満たされているはずですから。--横見会話2012年5月6日 (日) 16:24 (UTC)[返信]
一番の理由は64戦隊歌と映画挿入歌の「加藤隼戦闘隊」を混同していることです。』と仰いますが、64戦隊の戦隊歌は「あゝ隼戦闘隊」の高木俊朗氏のまえがきでも黒江氏が作った歌と聞いて「専門家が作った主題歌とばかり思い込んでいた」と述懐しておられますし、この2つを峻別しないことが誤りとは言い切れない(少なくとも峻別しないことが誤りとする資料は提示されていない)でしょう。この部分については横見さんご自身も資料未確認、とされているところですし、その資料が出てきてからにしましょう。
ルールに基づいておかしな記事ができれば、そのルールの適用があやまりとなります』と仰っておられますが、そのような公式方針はありません。そもそもWikipediaにおいては、五大方針は適用するとかしないとかいう、任意適用のものではなく、全ての記事、全ての執筆者が守ることが前提のものです。今回は記事の内容が不正確になるから、方針適用は見送ろう、というような曖昧な運用がなされるものではありません。仮に公式方針を適用したら記事が不正確になったとしてもしょうがないというのが前述のWikipedia:検証可能性に語られている通りであり、横見さんの仰る『「ルールを守って記事破壊」が正しい、仕方がないと言う態度は誤りです。』というのはWikipedia内の合意ではなく、横見さん個人の感想であって、それに基づいて私の執筆姿勢を批評される筋合いはないものと考えます。というよりも、横見さんの仰っていることの方が、よっぽどWikipedia内の合意に反するものでしょう。
まずMachine gunさんの名誉感情についてこの場で云々するのはやめて下さい。この場でそれを要求することはできません。』については全く意味がわかりません。この場はあくまで記事の編集に関わることを議論する場である、という意味なのでしょうか?だとするならば、そもそも記事の編集に関係のない、私に対する誹謗中傷を、横見さんがここに書いたことが原因であり、その横見さんに対して私が謝罪を求めると、ここはそういう場ではない、とは手前勝手で全く以て理解できない話です。この場で誹謗中傷をした、ならばその釈明や撤回・謝罪をこの場以外のどこでするというのですか?
最後に。横見さんは一貫して要出典は妥当ではないとされており、先だって『当方の要求は要出典を差し戻すことです。』とされておられます。一方で私は要出典部分は妥当であり、この部分については相当の期間(一般的に半年程度)が経過しても出典がつかないのであるならば削除すべきであり、同時に当面は要出典状態で維持すべきであると考えております。この点について私と横見さんの間には何らの合意がありませんが、その状態で『オシマイ』とはどういうことなのでしょうか。--machine_gun会話2012年5月13日 (日) 14:14 (UTC)[返信]

合意はなくても、対立している記事がすでにないから、当然話は「オシマイ」になります。--横見会話2012年5月18日 (金) 16:54 (UTC)[返信]

まだ復帰させるさせないなどの議論が残っているのも関わらず、「オシマイ」とのことですので、Wikipedia:コメント依頼/横見を出させて頂きました。--machine_gun会話2012年5月26日 (土) 18:04 (UTC)[返信]

引用部分の削除について[編集]

会話ページにおいて、私が「ああ隼戦闘隊」p.1の引用部分を削除した県も横見さんより批判されましたので、この点についても私の意図を説明しておきます。これは、果たして著作権法上の引用の要件を満たした引用なのか?という点でグレーゾーンと判断したからです。具体的にはこの部分は単なる出典として考えるのであれば、p.1とすれば足りるものであり、殊更本文を引き写す必要があるとは言い切れません。あるいは横見さんが仰るように「それを読者に考えていただくためのもの」であったとしても、やはり引き写す必要があるとは言い切れません。引き写す必要性が不明確でありながら、必要性が無いと判断されれば著作権法上の問題に発展するものを残しておく必要がない、と判断して削除したものです。--machine_gun会話2012年5月4日 (金) 02:03 (UTC)[返信]

原典をかなり削っている上、引用箇所を明記しているので、引用の一般的不法行為を阻却する要件は備えています。これらは、アメリカなどの論文や著作における文献引用で認められる手法の範囲であると考えています。--横見会話2012年5月4日 (金) 04:02 (UTC)[返信]
そもそも横見さんは米法の話をされているのでしょうか?Wikipedia‐ノート:引用のガイドラインによると、考慮すべき法律としては日本法と米法の両方が挙げられております。まず日本法の観点から言えば、引用箇所の明記のみで引用の要件には該当せず、同一性の保持や引用の必然性が求められています。当該引用部分については、原文では「きまって」となっているところが「決まって」となっているなど、やや同一性の観点から見ると甘いこと、そして何よりもこの文章を引用しなくては文意が成り立たない、と言う程度の必然性があるのか?という疑問があります。また、日本法では当然にアメリカなどの論文でどうしているのかなどは関係ありません。ですから、この部分を保守的な観点から削除したことは妥当であったと考えます。--machine_gun会話2012年5月13日 (日) 14:21 (UTC)[返信]

ここでmachine_gunさんが書いているのは、あなたの考えでしかありません。そもそも、あなたの考えは間違っているかもしれません。また、あなたの消去をだれかが復活したわけでもありません。だから、自分のしたことが正しいことをだれかに教える必要も意味もありません。なお、法律のお話はやめて下さい。米法と日本法は法源がまったく違います。保護法益も違います。例えば、米連邦法による著作物における排他的権利は厳密には日本法の上には存在しませんし、米法に著作者人格権も存在しません。「適当な話」をここで書くのは今後やめましょう。なお、著作物について日本や中国のように非常に長い歴史を持つ国での「保守的な観点」はあなたの意見とは全く正反対のものです。もっともこの程度は、米法(28 USC 1338)でも無視される程度の問題ですが。私がMachine gunさんに言いたいのは「知らないことに仮に興味があっても手を出さないように」ということです。多くの人の時間を空費させることになるからです。--横見会話2012年5月18日 (金) 16:47 (UTC)[返信]

分割提案[編集]

本項加藤隼戦闘隊#映画『加藤隼戦闘隊』について加藤隼戦闘隊 (映画)として分割することを提案いたします。セミ・ドキュメンタリー映画であるとの記述もありますが、当該作品は記録映像ではなく創作物であり、現在の記述も部隊と直接関係のない撮影内容についてのものですので、部隊そのものとは分けるべきものと思います。

なお加藤隼戦闘隊#軍歌『加藤隼戦闘隊』については、上節でも議論があったようですが、当方では資料の持ち合わせがなく判断できかねますので本議論では対象外とさせていただきます。--タケナカ会話2021年12月9日 (木) 11:46 (UTC)[返信]

コメント 分割に賛成したいのはやまやまですが、出典がないのが引っ掛かります。----リトルスター会話2021年12月10日 (金) 10:36 (UTC)[返信]
返信 (利用者:リトルスターさん宛) ご意見・情報ありがとうございます。
出典については現在加筆を進めている『円谷英二特撮世界』のほか、参考文献節に提示されている『東宝特撮映画全史』と『東宝SF特撮映画シリーズVOL3』についても当方で加筆可能です。現在の記事では映画系の出典を加筆するのは気が引けるというのも提案動機の1つです。--タケナカ会話2021年12月10日 (金) 11:40 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。安心いたしました。 賛成 いたします。----リトルスター会話2021年12月10日 (金) 11:43 (UTC)[返信]
報告 実行しました。--タケナカ会話2021年12月16日 (木) 12:08 (UTC)[返信]