ジルベール・デュプレ

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デュプレ

ジルベール・デュプレフランス語: Gilbert Duprez1806年12月9日1896年9月23日)は、パリ・オペラ座で活躍したフランステノール歌手、 音楽理論家作曲家、音楽教師。パリで生まれ、パリで死去[1]

彼は、1831年ルッカで行われたロッシーニによる『ギヨーム・テル』のイタリアでの初演の際に、胸声[注釈 1]で〈ハイ C〉を発声した最初の歌手として知られる[注釈 2]。この「強制的な」テクニックは彼の声をすり減らしていたと見られる[注釈 3]。これはこのテノール歌手がわずか 43 歳で引退した理由を説明することになる[4]

教育からパリ・オペラ座デビュー[編集]

デュプレのデビューへの道のりは困難を極めた。彼はまず父親の反対を押し切らなければならなかったが、その後も執拗な不運が彼の最初の勉強と彼の修練を妨げたが、彼は意志の力と努力によって何とか乗り切った[5]アレクサンドル=エティエンヌ・ショロン英語版監督の王立古典宗教音楽研究所で学んだ後、イタリアでのキャリアをスタートさせたが、そこでは月並みな成功しか得られなかった。フランスに戻った彼は、1825年にロッシーニの『セビリアの理髪師』でオデオン座にデビューしたが、オペラ・コミック座に移る前のボワエルデューの『白衣の婦人』での演技はほとんど納得のいくものではなかった[6]

テクニックに磨きをかけるためにイタリアへ戻った彼はローマフィレンツェナポリで、特にロッシーニの『オテロ』、『セビリアの理髪師』、『ギヨーム・テル』のイタリア初演、マリア・マリブランとの『イネス・デ・カストロ』(Ines de Castro)[注釈 4]、そしてガエターノ・ドニゼッティのいくつかのオペラで名声を博した。『パリジーナ英語版』(1833年)、『イングランドのロスモンダ英語版』(1834年)、『ドン・セバスティアン英語版』(1843年)、特に1835年のナポリのサン・カルロ劇場での『ランメルモールのルチア』などである[5][7]。なお、『ランメルモールのルチア』には恋人たちの二重唱の中にテノールのハイE♭(変ホ)という超高音があるが、これはデュプレの特質を発揮させるための一音であった[8]。交渉には強かったデュプレは、妻のアレクサンドリーヌ・デュペロンを自分が働いていた劇場に自分と一緒に採用するよう主張した[7]。 自尊心をくすぐるような評判に引きずられるような形で、1837年に彼はフランスに戻り、パリ・オペラ座の第一テノール歌手として採用された。この職はアドルフ・ヌーリが務めていた[注釈 5]。1837 年4月17日、デュプレはロッシーニの『ギヨーム・テル』でパリ・オペラ座にデビューした。彼はイタリアで彼の名を一躍有名にしていた胸声の〈ハイ C〉をフランスで初めて発声した[3][注釈 6]。この唱法は後の世代に大きな影響を与え[1]、この後すぐに標準的な歌唱法として定着していく。彼はオベールの『ポルティチの唖娘』でも見事な声を披露し、ジャコモ・マイアベーアの『ユグノー教徒』と『悪魔のロベール』では、新しさを求めるパリの聴衆の熱狂を呼び起こし、1839年にライバルのアドルフ・ヌーリを自殺に追い込むほど落胆させた。デュプレはパリでのヌーリの葬儀ミサでルイジ・ケルビーニの『レクイエム』を歌った[注釈 7]

パリ・オペラ座での活躍[編集]

『シャルル六世』でのデュプレ、ストルツ、ゴルドーニ、バロワレ

次の10 年間で、彼はとりわけ、ベルリオーズの『ベンヴェヌート・チェッリーニ』、オベールの『妖精たちの湖』(Le Lac des fées、1839年)、フロマンタル・アレヴィの『ギドとジネヴラ英語版』(1838年)、『キプロスの女王フランス語版』(1841年)、そして『シャルル六世英語版 』、ガエターノ・ドニゼッティの『ラ・ファヴォリート』と『殉教者英語版』(1840年)、ヴェルディの『イェルサレムフランス語版』(1843年)などを歌った。彼は膨大な量をこなしたので、声が疲れて暗くなるほどだったが、バリトンの役もいくつか歌った[7]

作曲家として[編集]

オペラ作曲家として、彼は4つのオペラを公の場で上演した。1826年にヴェルサイユで『漁師の小屋』、『善き主への手紙』は1853年オペラ・コミック座で上演された2幕構成のオペラ・コミックである。 『サムソン』は1857年と『ジャニータ』は1862年にリリック座で上演された3幕のオペラ、最後の『ジャンヌ・ダルク』は1865年のパリ・オペラ座での全5幕のオペラである[注釈 8]。これらの作品は成功しなかった[10]。彼はまた『椿姫』やその他のイタリア作品をフランス語版へ翻案した[5]

引退、その後[編集]

1849年、声の衰えにより舞台から引退することにした。翌年、彼は1842年に教授に任命されていたパリ音楽院を去り、当時コンドルセ通り40番地にあったテュルゴー通りに300席のコンサートホールを備えた独自の歌唱学校を設立し、そこで娘のカロリーヌ・デュプレフランス語版を含む多くの生徒を指導した。カロリーヌ・デュプレ、マリー・バトゥフランス語版マリー・マリモンフランス語版カロリーヌ・ミオラン=カルヴァロフランス語版は歌手としてのキャリアを追求することになる。

彼は1846年に理論的著作『歌唱の芸術』(L'Art du chant、1845年IMSLP)を執筆し、1880年に『歌手の記念品』(Gallica - B.N.F.)と1888年に『偉大な時代の再現』という 2 冊の回想録を執筆した。

1853年から1870年までヴァルモンドワフランス語版市長を務め、レジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエを受章した彼は、1896 年にパリのパッシー地区のトゥール通り119 番地の自宅で 90 歳近くで亡くなり[注釈 9]モンマルトル墓地に埋葬された[11]。石碑には次のような碑文が書かれている。

ここに勇敢な芸術家、作家、作曲家が眠る。
詩人でもあるが、何よりも偉大な歌手である。
彼は自分の芸術において名誉ある地位を占めている[5]

歌唱と芸風[編集]

ウォラックによれば、小さな体で口を大きく開いた風刺画が描かれたが、期待を裏切らない演奏をした。音楽評論家ヘンリー・チョーリー英語版は〈彼の真に迫った劇的な表現〉を称賛し、ロジャーは彼の歌唱は最後まで均一で〈黄金を溶かしたようだ〉と記述した。しかし、声の衰えは早く、ベルリオーズも彼の表現が粗くなったことを残念がった[1]

『オペラ事典』によれば「デュプレはジャコモ・ダーヴィッド英語版ジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニ英語版ドメニコ・ドンゼッリ英語版といった古い歌手たちの長所を自分の歌唱スタイルの中に取り込みながら、時としてファルセットを活用しつつも、実声をベースにした歌唱法で」活躍した[12]

家族[編集]

ニコラ=マリー・デュプレとジュリー・ペルソンの息子、ジルベール・デュプレには2人の兄弟がいる。

エドゥアール、(1804年-1879年)、俳優、台本作家。 ベルナール・ボナヴァントゥール(1808年-1888年)、音楽家、娘のポリーヌ・マリア・ラコンブ・デュプレ(1842年-1898年)は歌手になった。 1827年2月27日、ジルベール・デュプレは歌手のアレクサンドリーヌ・デュペロンとパリで結婚した(ナント、1806年5月29日 - ブリュッセル、1872年2月29日)。 この結婚から次の子供が生まれた。

カロリーヌ・アレクサンドラン・レオポルディーヌ・マリー(1832年-1875年)、ソプラノ歌手の彼女は、1856年9月12日にパリでオペラ座の第1ヴァイオリンのアメデ・エルネスト・レオポルド・ヴァン・デン・フーベルと結婚した。 ジルベール・ドニ・レオン(1838年-1928年)、歌手であり、音楽院の歌唱教師でもある彼は、父親が設立した歌唱学校を経営することになる。彼は1862年5月20日にパリ2区でジャンヌ・マリー・マルグリート・ティネルと結婚した。彼はパリ・オペラ座バレエ団のスター、クリスティアーヌ・ヴォサールフランス語版の祖父である[13]。 66歳で亡くなった妻アレクサンドリーヌ・デュペロンは、モンマルトル墓地の夫と同じ墓に埋葬されている。 現代フランスのソングライター編曲家プロデューサー、歌手、指揮者オリヴィエ・トゥサンフランス語版は彼の曾孫にあたる。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ファルセット又は裏声でない声、と言う意味で日本語の実声
  2. ^ 「彼は胸声で〈ハイ C〉歌った最初の歌手ではなかったが、例えば、『ギヨーム・テル』で一貫してそれを用いた最初の歌手である」と言う見解もある[2]
  3. ^ 男声の高音はそれまで、〈ファルセット〉または〈ミックスボイス〉で発声されていた[3]
  4. ^ ニコロ・アントニオ・ジンガレッリ1798年
  5. ^ ヌーリはフランスを去り、ナポリへ赴き、2年後に自殺してしまう。
  6. ^ ロッシーニ自身はこの新しいテノーレ・ディ・フォルツァ(力強いテノーレ)の響きが好きではなかったが、デュプレの出現によって、この作品の劇場の演目として残る可能性が確実に高まったのである[9]
  7. ^ サン=ロッシュ教会英語版で多くの音楽界、芸術界の著名人が参列する中、最後の葬儀が執り行われた。
  8. ^ この作品の上演は大変な惨劇となり、第1幕すら、演奏し終えることができず、指揮者のマティヨンは職務を放棄して立ち去った。上演は完全に中断されてしまった。
  9. ^ Et non à fr:Poissy comme le laisse penser une coquille du Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle.

出典[編集]

  1. ^ a b c 『オックスフォードオペラ大事典』P406
  2. ^ 『ラルース世界音楽事典』P1080
  3. ^ a b Les aigus masculins étaient jusqu'alors émis en falsetto ou en « voix mixte ».
  4. ^ Gregory W. Bloch2022年5月27日閲覧
  5. ^ a b c d Le Temps(quotidien français, 1861-1942) gallica 1896年9月25日
  6. ^ Le Figaro gallica 1896年9月24日
  7. ^ a b c John Potter, Tenor, a History of a Voice p. 52
  8. ^ 岸純信 P134
  9. ^ 『新グローヴ オペラ事典』P245
  10. ^ Félix Jahyer Paris-Théâtre gallica 1874年2月12日
  11. ^ A. Boutillon
  12. ^ 『オペラ事典』P279
  13. ^ Gretchen Ward :The art of teaching ballet, ten twentieth-century masters ISBN 978-0813014593

参考文献[編集]

外部リンク[編集]