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サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サウード1世
سعود
サウジアラビア国王
サウード1世(1960年頃)
在位 1953年11月9日 - 1964年11月2日

全名 سعود بن عبد العزيز آل سعود
サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード
出生 (1902-01-12) 1902年1月12日
オスマン帝国の旗 オスマン帝国 クウェート首長国クウェート市
死去 (1969-02-23) 1969年2月23日(67歳没)
ギリシア王国アテネ
埋葬 サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤドウード墓地
家名 サウード家
父親 イブン・サウード
母親 ワドハー・ビント・ムハンマド・アッ=ウライイルアラビア語版
宗教 イスラム教ワッハーブ派
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ニザーム・オブ・ハイデラバード(ウスマーン・アリー・ハーン)とのキング・サウド

サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードアラビア語: سعود بن عبد العزيز آل سعود‎, ラテン文字転写: Saud bin Abdulaziz Al Saud1902年1月12日 - 1969年2月23日)は、第2代サウジアラビア国王1953年 - 1964年)。ワッハーブ派イマームとしてはサウード4世、サウジアラビア国王としてはサウード1世と呼ばれる。

生涯

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初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの次男として、サウード家亡命先のクウェートで産まれた。祖父アブドッラフマーンが父にサウードの誕生を知らせにいった日に、父はリヤド奪還に成功したという。

18歳よりアラブ各地の戦闘に参加し、1924年から1925年の父のヒジャーズ王国出兵時には名代としてリヤドを統治し、1930年、ナジュド知事に任命される。兄のトゥルキーが1919年スペインかぜのため早世していたこともあり、ヒジャーズ・ネジド王国が1932年にサウジアラビア王国と改称した翌年の1933年にサウジアラビア王国王太子に任命される。

父王の逝去に伴い1953年に即位する。サウジアラビア国家警備隊を編成。健康不良により1964年に弟のファイサルに譲位する。1969年、療養先のアテネにて崩御した。

人物

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サウードはベドウィンに人気があった。また、外国語を全然話せないことを誇りとしていたという。しかし、後に堕落してハレムキャデラックの趣味にふけったという。

インド総督府で働き、1930年にイスラム教に改宗したジョン・フィルビー(父王の顧問であった)と仲が悪く、1955年4月にフィルビーを国外追放する。しかし、レバノンの財界人、フサイン・アル=ウワイニーらが、サウードの弟、ファイサルとアブドゥッラーの協力を得て、サウードを説得し、1956年11月にフィルビーは年2160英ポンドの手当て付きで、サウジアラビアに帰国した。

参考文献

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