小坂狷二
おさか けんじ 小坂 狷二 | |
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生誕 | 1888年6月28日 東京市 |
死没 | 1969年8月1日(81歳没) |
国籍 | ![]() |
別名 | Kenĵi OSSAKA |
出身校 | 東京帝国大学工科大学機械工学科 |
職業 | 大学教授、技術者 |
団体 | 日本エスペラント学会 |
著名な実績 | エスペラント運動 |
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 東京市 - 1969年8月1日 東京都)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティストであり、日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。
工学者として[編集]
1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。1938年に退官し、日本車輌製造株式会社勤務、後に神奈川大学工学部教授を務めた。
エスペランティストとして[編集]
小坂狷二は国際語エスペラントを1906年に二葉亭四迷の『世界語』により知る。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。1916年より日本エスペラント協会(Japana Esperantista Asocio)の運営に参加するも、その組織実態にあきたらず、1919年に浅井恵倫、藤沢親雄らとともに日本エスペラント学会(Japana Esperanto-Instituto)を設立。その後、同学会が日本のエスペラント運動の中心機関となる(なお1926年に同学会は財団法人化)。同学会事務所は東京市の小坂宅におかれ(~1928年)、機関誌"La Revuo Orienta"の編集に1925年までたずさわる。その後、2年間の職業上の欧米滞在を経て、日本にもどってからも精力的にエスペラントの活動に参加する。1938年の第26回日本エスペラント大会で、小坂にちなみ、顕著な活動をしたエスペランチストに贈られる「小坂賞」が設定される。1968年、財団法人日本エスペラント学会において会長に任ぜられる。国際的には1958年~1967年に「エスペラント語学院(アカデミーオ・デ・エスペラント)会員であった。
親族[編集]
- 父親の小坂千尋(1851-1891)は陸軍軍人[1]。
- 妹の竹(1890年生)は関西の大地主芝川又四郎の妻[2]。
- 子に火山学者で東京工業大学名誉教授の小坂丈予(おさかじょうよ,エスペラント単語のĝojo(喜び)に由来する名)がいる.
主な著作[編集]
エスペラント語学書[編集]
- 「エスペラント捷径(しょうけい)」- 独習書。
- 「エスペラント講習用書」
- 「エスペラント前置詞略解」
- 「エスペラント前置詞の用法」
- 「エスペラント接続詞の用法」- 雑誌連載をもとに、没後編まれた。
エスペラント文芸書[編集]
- 「エスペラント作詞法」
- 「El Orienta Florbedo」- 日本の詩歌、漢詩などの翻訳と自作詩。
- 「505 Elektitaj Poemoj el Manjoo-Ŝuu」- 万葉集505首の翻訳。
工学専門書[編集]
- 「客貨車工学」(上巻:1948年、下巻:1950年)
- 「機械設計の要領」(1966年)
参考文献[編集]
- 初芝武美『日本エスペラント運動史』(1998年、日本エスペラント学会)