鮮于嗣

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鮮于 嗣(せんう し、生没年不詳)は、楽浪太守[1]

人物[編集]

建安年間、遼東公孫康楽浪郡屯有県以南の地を割いて帯方郡となし、公孫模張敞などを遣わして遺民を収め、兵を起こして三韓を伐って服属せしめた[1]。その後、景初中、明帝帯方太守劉昕楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を定め、諸三韓の臣智邑君、臣智に次ぐ者に邑長の印綬を授けた[1]。かくして韓人は郡に朝貢するようになったが、その際に属国の常として中国から賜ったを着るのであるが、韓人は美しい幘を着ることを喜び、遂には身分の賤しい者までが自分から勝手に印綬を帯び、幘を着て朝貢し、それが時には千余人にも及んだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 橋本増吉 編『朝鮮』雄山閣〈物語東洋史 第11巻〉、1937年、9頁。