阿野鉱二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿野 鉱二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府堺市
生年月日 (1948-01-01) 1948年1月1日(76歳)
身長
体重
177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1969年 ドラフト2位
初出場 1970年
最終出場 1976年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1977 - 1991)

阿野 鉱二(あの こうじ、1948年1月1日 - )は、大阪府堺市[1]出身の元プロ野球選手捕手)。右投右打。

経歴[編集]

浜寺中学時代に捕手になる。明星高等学校では真田重蔵監督の指導を受け、1年生の1963年夏の甲子園に控え捕手として出場。堀川浩伸(法大)の好投もあって決勝に進み、下関商池永正明との投手戦を2-1で制し、全国制覇を経験[1]する。この時の四番打者、正捕手は、中学の先輩である和田徹だった。2年生からレギュラー捕手になり、五番打者として1964年夏の甲子園に連続出場[1]するが、1回戦で大府高に敗れる。同年の秋季大阪大会では準決勝でPL学園に惜敗。1965年夏は府予選準決勝で興國高谷博信投手らに抑えられ敗退した。高校同期に堀井和人中堅手がいる。

1966年4月に早稲田大学教育学部教育学専修に進学。東京六大学野球リーグでは在学中に2度の優勝を経験した。入学当時の正捕手は1966年秋季ベストナインの長倉春生であったが、その壁を越え、2年生から出場機会が増える。3年生の時には同期の小坂敏彦とバッテリーを組み、1968年秋季リーグに優勝。自身も首位打者となりベストナインに選出された[1]。リーグ通算57試合出場し184打数52安打、8本塁打、24打点、打率.283。1970年3月、早稲田大学教育学部教育学科専修卒業、学士(教育)(早稲田大学)。他の大学同期に谷沢健一外野手荒川尭遊撃手小田義人一塁手らがおり、自身も含め7人がプロ入りしている。

1969年プロ野球ドラフト会議ドラフト読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。1970年にはジュニアオールスターゲームにも選出される。1971年には49試合に出場、うち28試合に先発マスクを被った。1974年にはイースタン・リーグで首位打者を獲得[1]。衰えの見える森昌彦の後継を吉田孝司と争うが、1973年以降は出場機会が減少。1975年の巨人ベロビーチキャンプで腹膜炎を起こし、その後は一軍に定着できず1976年限りで現役引退[1]

引退後は巨人バッテリー兼トレーニングコーチに就任、1985年よりトレーニングコーチ専任となり1991年退団。その後は東京都中央区にある建設業スチールエンジ株式会社取締役会長[1]

人物[編集]

トレーニングコーチとしての手腕は非常に高く、「巨人軍のストレッチング」という本を出版するほどの研究家であり、トレーニングコーチの草分け的存在だった[1]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1970 巨人 10 11 11 2 2 0 0 1 5 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .182 .182 .455 .636
1971 49 112 101 7 22 1 0 3 32 12 1 0 0 1 7 1 3 13 1 .218 .286 .317 .603
1972 17 27 25 3 6 0 0 1 9 1 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .240 .296 .360 .656
1973 4 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 1 1 .250 .400 .250 .650
1974 7 7 6 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .333 .429 .333 .762
1976 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:6年 89 163 148 12 33 1 0 5 49 14 1 0 0 1 11 1 3 18 2 .223 .288 .331 .619

年度別守備成績[編集]

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1970 9 5 3 2 .400
1971 46 26 15 11 .423
1972 16 8 5 3 .375
1973 2 3 3 0 .000
1974 1 0 0 0 -
1976 1 0 0 0 -
通算 75 42 26 16 .381

背番号[編集]

  • 33 (1970年)
  • 10 (1971年 - 1975年)
  • 32 (1976年)
  • 82 (1977年 - 1988年)
  • 100 (1989年 - 1991年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、15ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]