鈴木義尾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木すずき 義尾よしお
生誕 1890年11月15日
日本の旗 日本 山形県北村山郡尾花沢町
死没 (1944-11-21) 1944年11月21日(54歳没)
日本の旗 日本 台湾
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1944年
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

鈴木 義尾(すずき よしお、1890年明治23年)11月15日 - 1944年昭和19年)11月21日)は、日本海軍軍人。海軍中将。前名は義雄。主な軍歴を第二艦隊に歩み、太平洋戦争において軍令部第二部長、第三戦隊司令官を歴任。マリアナ沖海戦レイテ沖海戦に参戦し、台湾沖で乗艦「金剛」 の沈没時に戦死した。

生涯[編集]

鈴木が艦長を務め、のち共に戦没した戦艦・金剛

山形県出身。新庄中学を経て、海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中29番。鈴木は海軍大学校航海学生を修了した航海科専攻士官で、重巡洋艦加古」など4艦の航海長を務めた。

大尉第一艦隊参謀を務め海大甲種23期を修了。高木武雄角田覚治田結穣らが同期生である。中佐時代は欧米出張を経て、日本海軍の前進部隊である第二艦隊の参謀に就任。司令長官末次信正参謀長中村亀三郎であった。大佐時代は、給糧艦間宮」特務艦長、海大教官(陸大教官を兼務)、駐満海軍部参謀長などを歴任。第二艦隊では主力艦である重巡洋艦「摩耶」、戦艦「金剛」の各艦長を務め、次いで同艦隊参謀長に就任。2年弱の任期中司令長官古賀峯一を補佐した。在任中の1939年(昭和14年)11月15日、少将に昇進している。

軍令部第二部長として太平洋戦争を迎え1943年(昭和18年)7月まで務めた。軍令部第二部は、日本海軍の戦備・補給などを担当する部署で、後任者は黒島亀人である。第二部長時代は、潜水艦研究委員会委員長も務めている。第三戦隊司令官に就任し、高速戦艦「金剛」、「榛名」を率い、空母部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参戦。レイテ沖海戦では戦艦2、重巡4、軽巡1、駆逐艦6を率いて第二部隊指揮官として参戦した[1]。同海戦から日本へ帰還の途次に、バシー海峡にて乗艦「金剛」が米潜水艦「シーライオン」の雷撃を受け沈没。鈴木は、艦長・島崎利雄らとともに戦死した。鈴木は1943年(昭和18年)5月に中将へ進級しており、特別進級はなかった。

なお、両海戦にともに参戦した宇垣纏は鈴木の同期生であるが、宇垣にとって鈴木は心友、酒友と述べる存在であった[2]

他の補職

東郷平八郎との関係[編集]

鈴木の妻は、海兵13期出身の海軍中将・東郷吉太郎の娘である。吉太郎は東郷平八郎の親族[3]で、鈴木は人事局員在任中、元帥である東郷の副官を務めている。

栄典[編集]

位階
勲章

出典[編集]

  1. ^ 『連合艦隊参謀長の回想』第六部「レイテ沖海戦」
  2. ^ 『戦藻録』「第四節 海戦後記」
  3. ^ 「第三編第三章第二十二節第七 参列員並関係員」
  4. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
  5. ^ 『官報』第1040号「叙任及辞令」1916年1月22日。
  6. ^ 『官報』第1930号「叙任及辞令」1919年01月11日。
  7. ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター 「第三編第三章第二十二節第七 参列員並関係員」(ref: A10110757000)
  • 宇垣纏戦藻録』原書房、1977年。 
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1981年。ISBN 4-87538-039-9 
  • 豊田穣『海軍軍令部』集英社文庫、1993年。ISBN 4-06-185556-5 
  • 海軍歴史保存会 『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 秦郁彦編 『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 明治百年史叢書第74巻 『海軍兵学校沿革』原書房