那波加神社
那波加神社 | |
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本殿 | |
所在地 | 滋賀県大津市苗鹿一丁目8-1 |
位置 | 北緯35度05分01.52秒 東経135度53分22.47秒 / 北緯35.0837556度 東経135.8895750度座標: 北緯35度05分01.52秒 東経135度53分22.47秒 / 北緯35.0837556度 東経135.8895750度 |
主祭神 | 天太玉命 |
社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
創建 | (伝)天智天皇7年(668年) |
本殿の様式 | 一間社流造 |
別名 | 苗鹿大明神 |
例祭 | 4月29日 |
那波加神社(なはかじんじゃ/なばかじんじゃ[1])は、滋賀県大津市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「苗を背負鹿」「三ツ巴」「抱茗荷」[2]。
祭神[編集]
主祭神
- 天太玉命 (あめのふとだまのみこと)
配神
明治時代まで、主祭神は宇賀御玉命とされていた。『特選神名牒』では、「苗鹿」という社名から稲の神・宇賀御玉命が附会されたものであろうとしている。
歴史[編集]
社伝によれば、祭神の天太玉命はこの地に降臨し太古から鎮座したという。老翁となった天太玉命の農事を助けるために、鹿が現れて稲の苗を背負って運んだので「苗鹿(なはか/のうか)」という社名・地名になったと伝える。当社との関わりがうかがわれるものとして、周辺には苗鹿古墳群や法光寺古墳群なども残っている。天智天皇7年(668年)に社殿造営、大同2年(807年)に荒魂社が造営されたと伝える。
仁寿元年(851年)、小槻宿禰今雄が雄琴荘を拝領して以降、当社と雄琴神社とが小槻氏の氏神とされ崇敬された。また、氏寺として建立した法光寺が当社別当寺となった。なお、法光寺境内には鎮守社として天神社があり木造男女神像(市指定文化財)が安置されているが、これらは当社の神体として作られたとする説がある[3]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では近江国滋賀郡に「那波加神社」と記載され、式内社に列している。
円仁が比叡山延暦寺の横川中堂を建立した際には、内陣柱を奉加した。このことも関係し、天台宗において法華経守護神である三十番神に第29番「苗鹿大明神」(本地仏:阿弥陀如来)として列している。建武2年(1355年)には後醍醐天皇より勅使が差遣され、天下太平祈願がなされた。元亀2年(1571年)織田信長の比叡山焼き討ちの際に社殿等を焼失し、慶長12年(1607年)再建された。
明治9年(1876年)10月近代社格制度において村社に列し、明治28年(1895年)1月に郷社に、明治35年(1902年)5月には県社に昇格した。
境内[編集]
「上の宮」と称される那波加荒魂神社に対し、本社は「下の宮」と称される。本殿は一間社流造で、間口五尺・奥行五尺。拝殿は入母屋造で、間口二間一尺・奥行二間一尺。
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本殿
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拝所
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境内
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神饌所
摂末社[編集]
那波加荒魂神社(上の宮)[編集]
那波加荒魂神社 | |
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社殿 | |
所在地 | 滋賀県大津市苗鹿一丁目9-14 |
位置 | 北緯35度05分00.47秒 東経135度53分18.72秒 / 北緯35.0834639度 東経135.8885333度 |
主祭神 | 那波加神社荒魂 |
社格等 | 那波加神社末社 |
創建 | 大同2年(807年) |
本殿の様式 | 一間社流造 |
斎部宿禰広成が祭神の荒魂社を創建、別宮としたという。社殿は概ね本社と同じであるが、拝殿・神饌所・神輿庫はない。
社殿背後には盤石が残り、磐座信仰の名残を伝える。
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本殿
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拝所
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鳥居
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霊石
その他[編集]
那波加神社境内
いずれも玉垣内に鎮座する。
- 龍神社
- 夷社
- 宇賀社
- 大将軍社
那波加荒魂神社境内
いずれも玉垣内に鎮座する。
- 大炊社
- 愛宕社
- 須古社
主な祭事[編集]
- 例祭 (4月29日)
上の宮を御旅所として、下の宮から神輿の渡御が行われる。
現地情報[編集]
所在地
- 那波加神社(下の宮):滋賀県大津市苗鹿一丁目8-1
- 那波加荒魂神社(上の宮):滋賀県大津市苗鹿一丁目9-14
那波加神社と那波加荒魂神社とは徒歩すぐ。
交通アクセス
周辺
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 谷川健一 編『日本の神々 神社と聖地』 5(山城 近江)、白水社、1986年8月。ISBN 4-560-02215-1。
- 田中延佳、田村三郎、吉田柳二「算博士小槻今雄について」『数理解析研究所講究録』第1257巻、京都大学数理解析研究所、2000年、181-185頁、CRID 1520572359985543296、hdl:2433/41936。}