裴宗鎬
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名前 | ||||||
本名 | 裴 宗鎬 | |||||
カタカナ | ベ ジョンホ | |||||
ラテン文字 | Bai Chon-Go | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1913年 | |||||
没年月日 | 1963年1月16日(50歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
普成専門学校 | ||||||
1939-1941 | 早稲田大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1935 | 全京城蹴球団 | |||||
代表歴 | ||||||
1939-1942 | 日本 | 0 | (0) | |||
1948-1949 | 韓国 | 3 | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
裴 宗鎬(ベ ジョンホ、朝鮮語: 배종호、1913年 - 1963年1月16日)は、サッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦前は日本代表選手、戦後は韓国代表の選手、コーチなどを務めた。
経歴
[編集]普成専門学校在学中に全京城蹴球団の一員(ポジションはRIF)として、1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した[1]。翌1936年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では普成専門の主将として準優勝に貢献した。
1939年に早稲田大学に入学してア式蹴球部に入部し、同年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の優勝に貢献した。また、同年8月には日本代表に選出され、関東州代表戦で初出場[2]した。
1941年にはア式蹴球部の主将に就任した[3]。大学を卒業した1942年に再び日本代表に選出され3試合に出場した[4]。
第二次世界大戦後は韓国代表となり、1948年のロンドンオリンピックで2試合に出場した。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]日本代表
- 1939年:日満華交歓競技大会
- 1942年:満州国建国十周年慶祝東亜競技大会
韓国代表
- 1948年:ロンドンオリンピック
試合数
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日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1939 | 0 | 0 | 3 | - | 3 | - |
1940 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1941 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1942 | 0 | 0 | 3 | - | 3 | - |
通算 | 0 | 0 | 6 | - | 6 | - |
脚注
[編集]- ^ 第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会 パンフレット p.55
- ^ “国際親善試合”. 日本サッカー協会. 2016年8月16日閲覧。
- ^ “旧友の死から思い起こす、両国のきずな”. 賀川サッカーライブラリー. 2016年8月16日閲覧。
- ^ “「満州国」建国十周年慶祝東亜競技大会”. 日本サッカー協会. 2016年8月16日閲覧。