蛤岳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蛤岳
蛤岳山頂
標高 862.8 m
所在地 日本の旗 日本 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
位置 北緯33度24分34.2秒 東経130度23分5.5秒 / 北緯33.409500度 東経130.384861度 / 33.409500; 130.384861座標: 北緯33度24分34.2秒 東経130度23分5.5秒 / 北緯33.409500度 東経130.384861度 / 33.409500; 130.384861
山系 脊振山系
蛤岳の位置(佐賀県内)
蛤岳
蛤岳 (佐賀県)
蛤岳の位置(福岡県内)
蛤岳
蛤岳 (福岡県)
蛤岳の位置(日本内)
蛤岳
蛤岳 (日本)
プロジェクト 山
テンプレートを表示

蛤岳(はまぐりだけ)は、日本南部の九州佐賀県北部にある、脊振山系に属する標高862.8mのである。

福岡県との県境近くの神埼郡吉野ヶ里町北部にある。山頂には直径3〜4mほどの蛤岩と呼ばれる巨石があり、これが東西に割れてが殻を開いた様子に見えることから名付けられたと言われている。

蛤水道[編集]

蛤水道
蛤水道
水系 筑後川水系田手川
延長 当初1.56~現存1.26 km
平均流量 0.056 m³/s
水源 蛤岳吉野ヶ里町
流域 佐賀県
テンプレートを表示

山腹には江戸時代初期に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安が築造した蛤水道が現存し、筑後川水系の田手川へと豊かな水(0.056立米毎秒)を佐賀方面に流し続けている。

蛤水道は、蛤岳山頂北側の山腹[1]から筑前那珂郡五ヶ山村字大野)方面に流れていた水[2]を肥前側へ通す人工の分水界水路[3]であり、1626年に築造された[4]。蛤岳の北東側中腹に人工の井堰(井手、小さいため池)と1.5km程の導水路を築造し、南方の田手川[5]に落ちる谷筋まで導水する仕組みである。「野越し」という一種のオーバーフロー設備が特徴であり、多雨期に水路が溢水して崩壊しないよう工夫されたものである。

2010年には土木学会選奨土木遺産に認定された。国道385号線坂本峠から蛤岳山頂に向かう九州自然歩道の途中にある。

逸話[編集]

吉野ヶ里町教育委員会によると、蛤水道には以下のような伝承がある。

水路とため池築造の影響で、筑前黒田藩側の大野川(那珂川支流。現代[6]東脊振トンネル北側にある)に落ちる谷筋に向かう水量が激減し、麓の筑前側の大野集落が水不足に陥った。大野集落の民によって水道の破壊が謀られたが、実行には警備の目を欺くため「お万」という子持ちの女性が選ばれた。だが、あまりの警備の厳しさから果たすことができなかった。その際には、お万は泣き声で見つかることを恐れ連れていた乳飲み子を滝壺に捨て[7]、自らも池に身を投じた。子を捨てた滝を「稚児落としの滝」、お万が身を投じた池を「お万ヶ池」と呼び、今も水道の源付近にその名を残している。その後、蛤水道の水路さらえには、お万の霊が必ず雨を降らせたり曇らせたりし、作業を妨げるという言い伝えがある。

また、肥前側の小川内村での伝承によると、江戸時代の当時水不足に陥ったのは麓の大野集落ではなく(大野集落は大野川からは引水しておらず)、大野川下流の那珂川流域の平野部付近(筑前国)であり、「お万」と言う女性はその下流集落から水路の変更を謀りに来ていたと言う。

なお史実として、茂安はその後、水路の途中数箇所に「野越し」という一種のオーバーフロー設備を作り、筑前側にも少々の水が流れるように改良した。これは、水路の損壊防止が主眼であり、この野越しからは大幅増水時でなければ大野川方面にはほとんど流下しない。

改修[編集]

蛤水道は藩や市町村により平成時代まで維持、改良され続けており、水路全体も昭和27年にはコンクリート造に改修され、野越しも含めて現代も機能している[8]。この主水路のコンクリート改修前は素掘りの水路で、現在[6]の水路から最大数m程度横にずれていたと見られる[9]

平成元年(1989年)にため池等整備事業(用排水施設整備)の一環として、当時の東脊振村が水路整備工事を実施、この際に延長151mの枡形コンクリート取水導水路(三面張水路)を蛤水道上流端に設置した[10]。この取水導水路上流端は、蛤岳山頂北側から流れてくる小川[11]に接続、取水用の井堰(井手、小さいため池)を形成している。この部分の堰は高さ数10cm程度しかない。このように平成元年から現在[6]までは井堰により大野川の一部から集水する構造に転換しているため、渇水期を除き大野川にも常時ある程度の量が流れるようになっている。この井堰より上流の集水面積は1キロ平米程度である[9][12]。この平成改修の以前の構造は不詳であるが、各種の故事伝記でため池と書かれている事から、大野川本流流下点を堰き止めて大きなため池になっていたとも考えられる。また、昭和や平成の福岡県側渇水時には、何らかの諮いにより水路側からも大野川側に水が流される事があったと言う[13][14][15]。なお、大野川下流の麓一帯では五ヶ山ダムが建設、2018年度(平成30年度)に竣工し、現在[6]は那珂川本流と支流大野川が直接このダムに流入している。

国界争論[編集]

水道築造やその故事の数10年後、脊振山頂付近で国界の争いがあり、元禄6年(1693年)に幕府の裁定が下りている[16]。なお、この争論(肥筑国境争論)で蛤岳付近の国界についても議論に俎上したが、裁定上は何ら影響が無かった[17]。なお天正11年(1583年)に領地争いがあり現在の国界(筑前・肥前界)として決着したとの記録はあるが[9]、当時は室町時代の守護領国制が崩壊した戦国時代の最中(龍造寺隆信島津義久の侵攻)であり、福岡藩、佐賀藩の成立はそれより後の1600年(慶長5年)、1607年(慶長12年)である。

脚注[編集]

  1. ^ 蛤岳山地はほぼ全てが佐賀県(肥前)側にある
  2. ^ この付近は旧来、那珂川水系大野川となる。大野川はほぼ佐賀県(肥前)側か、または佐賀・福岡県境(肥前・筑前国境)にある。厳密に言うと、蛤岳山頂北側から人工の井堰(井手、小さいため池)まで僅かにある小川も那珂川水系大野川に属する。
  3. ^ 那珂川水系大野川から筑後川田手川水系坂本川(支流)に分流している。
  4. ^ http://www.qscpua.or.jp/dobokuisan/kobetsu/02saga/10hamagurisuidou/hamagurisuidou.html
  5. ^ 蛤水道の終点から田手川との合流地点まで、田手川支流の坂本川・支流となる
  6. ^ a b c d (2019年)
  7. ^ お万が稚児を放置して身を投げ、肥前の役人が稚児を福岡側に連れてきたが泣き叫ぶので滝壺に遺棄したとするものもある。
  8. ^ 北緯33.414257・東経130.387577付近
  9. ^ a b c 角田清美 2003.
  10. ^ 蛤水道(佐賀県):九州農政局”. www.maff.go.jp. 2019年2月1日閲覧。
  11. ^ (ここも那珂川水系大野川であり、そのまま大野川本流流下点(そばに記念碑がある)まで小川がある)
  12. ^ いっぽう、稜線(自然分水界)となる九州横断道路より北東側の領域のうち肥前国に属する部分の集水面積はこの数倍以上あるが、それらの殆どは筑前側の那珂川本流に注いでいる。
  13. ^ 蛤水道の故事(2005年9月21日時点のアーカイブ
  14. ^ http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/201hamagurisuido.html
  15. ^ なお、蛤水道に関する教育資料では「野越し」から「那珂川」に流下するとしている物があるが、那珂川支流の「大野川」に流下するのが正しく、地形上は那珂川本流に自然流下することはない。
  16. ^ 福岡市博物館 <ファイルが見つかりません>、「黒田新続家譜」(黒田藩)、「肥前脊振弁財嶽境論御記録」[リンク切れ]
  17. ^ 服部英雄「国境の村々・五ヶ山の摩史、五ヶ山の地名と地誌、小川内の地名と地誌」『『五ヶ山・小川内』福岡県教育委員会』2008年、169-240頁、CRID 1010000782445429138hdl:2324/10795 
  18. ^ 厳密には、蛤水道と、坂本川あるいは坂本川支流との接続点

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]