蔡琰

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蔡琰『歴朝名媛詩詞』より

蔡 琰(さい えん、177年熹平6年)? - 249年嘉平元年)?(後述))は、中国後漢末期から三国時代にかけての詩人昭姫であるが、後に文姫と書かれるようになった(後述)。兗州陳留郡圉県の出身。父は蔡邕。甥に羊祜[1]。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。

生涯[編集]

南朝宋范曄編纂の『後漢書列女伝は次のように記す。蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となる[2]が、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴左賢王去卑か。異説に劉豹)のもとに留め置かれた[3]。匈奴に12年住む間に、胡人とのあいだに子を2人もうけた[4]建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しての苦痛を詩に述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。

没年[編集]

蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『晋書景献羊皇后伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は249年だと述べている[5]。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である蔡文姫の妹の蔡貞姫の名が見られる。

また、1992年に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177年-254年」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功蕭綽王昭君花木蘭がある。

字の異同[編集]

蔡琰の字は『後漢書』では「文姫」であるが、『後漢書』の注釈にある『列女後傳』では「昭姫」である。このような漢字の違いは王昭君にも見られ、例えば石崇が彼女を題材として作ったのタイトルは『王明君辞』となっている。これらは西晋の成立後に司馬昭の「昭」を避諱した結果である。晋代に成立した蔡琰の伝記は『後漢書』、『芸文類聚』、『太平御覧』等に収録されたため、避諱後の字である文姫が後世に広く伝わった。

琴を弁じる[編集]

蔡琰が幼い頃[6]、夜に蔡邕が琴を演奏していた。演奏の最中に琴の二番目の弦が切れ、別室で父の演奏を聞いていた蔡琰が「第二弦」と言った。蔡邕が不思議に思いわざと四番目の絃を切ると、またも「第四弦」と蔡琰は言った。蔡邕が「たまたま言い当てたのだろう」と言うと、蔡琰は「昔、呉季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠律管を吹いて軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと言うのですか」と答えた。それを聞いた蔡邕は驚いた。

この逸話は初学者向けの教科書の『蒙求』と『三字経』に取り入れられ、女性にも聡明な者がいることと、男子はこのような才女に見劣りしないよう勉学に励むべきだという教えに用いられた。

書の伝道師[編集]

張彦遠の『法書要録』中にある「伝授筆法人名」[7]に次の記述がある。蔡邕の筆法は崔瑗と蔡琰に伝わり、蔡琰が鍾繇に伝えた。鍾繇の筆法は衛夫人に伝わり、衛夫人が弟子の王羲之に伝えていき、その後の多くの能書家に伝わった。

羊祜を養育[編集]

甥の羊祜は十五歳のときに父を失ったため、蔡琰は彼を引き取り養育し、羊祜は孝行者として評判となった。蔡琰は彼を称えて、「羊祜はまるで顔回のようだ。成長すれば諸葛孔明にも次ぐ人間になるだろう」と言っていた(『太平御覧』巻五一三引く三十国春秋)。後に彼は敵将の陸抗に楽毅、諸葛亮といえども彼以上ではあるまいと評される将軍へと成長した(『晋書』羊祜伝)[8]

その他[編集]

陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。

蔡琰の著作には自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わる。一説に『胡笳十八拍』は後世の詩人が蔡琰に仮託してできた産物だという。なお『胡笳十八拍』の楽曲は現代に伝わり、中国十大古典名曲の一つに数えられる。

蔡琰の人生を題材にした作品には、北京頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした戯曲が多数作られており、の金志甫の『蔡琰還漢』やの陳与郊の『文姫入塞』、曹雪芹の祖父曹寅の『続琵琶』、郭沫若の『蔡文姫』などがある。

水星金星には彼女の名がついたクレーター (Ts'ai Wen-chiとCaiwenji、蔡文姫) がある。

蔡琰を題材とした作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 陳仲奇『蔡琰晩年事跡献疑』(『文学遺産』1984年第4期)記載
  2. ^ 丁廙作『蔡伯喈女賦』では婚姻時16歳、明張瑞図編『日記故事大全』巻2では15歳
  3. ^ 晋書』劉元海載記に「於扶羅死,弟呼廚泉立,以於扶羅子豹為左賢王,即元海之父也」とあるが、『三国志鄧艾伝では劉豹は右賢王と記されている。『後漢書列女伝では「興平中,天下喪乱,文姫為胡騎所獲,没於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子」と書かれているのみで、この左賢王が必ずしも劉豹を指しているとは限らない。『後漢書献帝紀では、興平二年の南匈奴左賢王を去卑と記す。興平年間の動静が明らかでない劉豹に対し、献帝の東遷に随行した記述のある去卑を、蔡琰を捕らえた「左(右)賢王」に比定する説が有力である(戴君仁「蔡琰悲憤詩考証」〈1952〉他)。
  4. ^ 子の父には、南匈奴の部伍の者(戴君仁 1952ほか)あるいは左賢王(郭沫若 1959ほか)の両説がある。
  5. ^ 『晋書』巻34羊祜伝には夏侯覇が嘉平元年(249年)に亡命した後、母と羊発が亡くなったと記載
  6. ^ 『芸文類聚』や『太平御覧』に引く『蔡琰別伝』では6歳、『蒙求』注釈と『琱玉集』巻12に引く『蔡琰別伝』では9歳
  7. ^ ウィキソース出典 卷01#傳授筆法人名” (中国語), 法書要録 (四庫全書本), ウィキソースより閲覧, "蔡邕受於神人而傳之崔瑗及女文姬文姬傳之鍾繇鍾繇傳之衛夫人衛夫人傳之王羲之王羲之傳之王獻之……"  蔡邕は神人より受けて、崔瑗及び女文姬に之を伝へ、文姬は鍾繇に之を伝へ、鍾繇は衛夫人に之を伝へ、衛夫人は王羲之に之を伝へ、王羲之は王献之に之を伝へ、……
  8. ^ 『ビジュアル三国志3000人』 | 世界文化社 渡邉義浩著