色部久長

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色部久長
時代 江戸時代後期 - 末期
生誕 文政8年12月14日1826年1月21日
死没 慶応4年7月29日1868年9月15日
改名 虎之助(幼名)→久長
別名 通称:弥三郎、長門
墓所 千眼寺(山形県米沢市窪田町窪田)、
念佛寺(新潟県新潟市中央区関屋下河原町)
官位 長門(受領名)
主君 上杉斉憲
出羽米沢藩奉行(他藩の国家老相当)
氏族 桓武平氏秩父氏色部氏
父母 父;色部篤長
兄弟 久長志駄義立新保朝綱
康長高梨頼昌
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色部 久長(いろべ ひさなが)は、江戸時代後期から末期にかけての米沢藩家老受領名長門であったことから色部長門の名で知られている。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町(現在の新潟市)を警備する為に総督に命じられ、奮戦し功績を残した。

経歴[編集]

戊辰戦争前[編集]

幼少より藩校興譲館に学び、助読となる。嘉永6年(1853年)に家督を相続し、安政6年(1859年)に侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864年)に奉行(国家老)となる。慶応元年(1865年)、上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。

越後に出陣[編集]

慶応4年5月上旬には新政府軍が続々越後に侵入、すでに高田は新政府軍で充満する状態になっていた。[1] 5月2日に小地谷談判が決裂し、長岡藩奥羽越列藩同盟に加入し、新政府軍との北越戦争が始まった。 米沢藩は藩内で徹宵の議論を経て、5月13日に色部を総督に、参謀甘糟継成・大隊長大井田修平以下600人が越後に出陣することになった。[2] 5月下旬に米沢藩軍務総督千坂高雅が越後に来たため、藩主命令で軍事面の総督は千坂に交替し[3]、色部は新潟港の警備を担当する総督となった。

新潟港管理[編集]

新潟港は正式開港場にはなっていなかったが、5月中旬頃から外国人の渡来が頻繁となり、スネル兄弟から同盟軍への武器弾薬供給ルートとなっていた。 5月30日に新潟港を管理していた旧新潟奉行田中廉太郎は新潟を預所の名目で米沢藩に引き渡し、米沢藩は会議所を置いて仙台・会津・庄内の各藩と共同で同盟軍の重要な補給港・新潟の管理にあたった。[4]

最期[編集]

新潟港管理開始から約2ヶ月後の7月25日朝、突如として新潟沖に薩長連合軍の軍艦が現れる。 そこに同盟軍側の新発田藩が突如、新政府軍に内通。(新発田藩が薩長連合軍の艦船上陸を先導して、米沢軍の本営を衝く) 26日未明から薩長軍の新潟市街地への砲撃が始まり、爆音が炸裂した。 同盟軍の内情を知る新発田藩の裏切りという圧倒的に不利な戦況のなか、29日夜明けから薩長軍の総攻撃が始まり、市街が火の海となった。[5][6]

色部はこの日に戦死するが、最期については異なる言い伝えがある。[7]

・「諸隊兵に解散命令を発した後、わずかな手兵とともに退却する時に道に迷って、薩長軍が市街地攻撃に向かう順路(現在の新潟高校前)に出てしまい、そこで逃げずに抜刀して奮闘前進したが、胸部を撃たれ討死を遂げた。 敵に首級をとられないよう、部下がその首を切り落とし、持ちながら走ったが、力尽き路傍の梨の木の根本を掘って、首を埋めた。」[8][9]

・「薩長軍が代官所に迫るに及んで、部下七名を引き連れ、馬上で東堀り通りを走って今の室長(旅館)あたりで鉄砲に狙撃され、股を撃ち抜かれた。しかし気丈にも、その銃手を斬って捨て、東堀りの水中に入って、腰にしていた手拭で股の貫通銃創を洗い、再度馬で関屋(現在の新潟高校前)まで来たが、出血多量で惜しくも臨終となった。 付き添っていた従臣等はやむなく泣く泣くその首を斬り、「だん袋」に入れて一目散に念仏寺に駆け込んだ。」[10]色部長門の首が隠された念仏寺は関屋の庄屋であった斎藤金兵衛が創建した浄土真宗大谷派の寺院で、墓地の奥に「戊辰の役米沢藩戦死者四士の墓」がある。これは色部長門、色部の首を切った浦戸儀左衛門(色部の御用人)、原廉太郎(組外組、後に五十騎に入る)、斎藤作兵衛(色部家家来)の4人の墓であると言われている。

色部家断絶・赦免[編集]

戦後、藩主・上杉斉憲は長子・茂憲に家督を譲って隠居する。新政府は藩から4万石を召し上げ、一連の戦犯について調査を命じた結果、既に死亡した色部を戦犯として届け出る。 この届出については、米沢藩軍務総督千坂高雅や参謀甘糟継成を首謀人として届け出さずに済むよう、藩主上杉茂憲宮島誠一郎が首謀人は戦死した色部、一人だけで認めてもらえないか、複数の政府要人に懇請したうえ、三条実美に委細が具申され、廟議で認められた。[11][12]

戦後、色部家は家名断絶となったため、子・康長は山浦氏名跡を相続する。明治16年(1883年)には色部家再興が許されたため、康長は長女に山浦氏を相続させ、自らが色部家を再興した。

追念碑建立[編集]

新潟市にある戊辰公園の色部長門君追念碑

色部の的確な判断により新潟の戦火の拡大が抑えられ、今ここに新潟の地があるのは色部長門のお陰である事を称え、色部の絶命した地に、1932年昭和7年)8月30日に関屋戊辰戦蹟保存会の会長斉藤巳三郎を発起人として、諸氏の連名によって色部の功績と慰霊をこめて色部長門君追念碑が建立され、その地を戊辰公園とした。この碑裏面の発起人・賛助者21名の名前のなかに米沢藩主上杉茂憲の子息上杉憲章 、越後でともに戦った軍務総督千坂高雅の子息千坂智次郎千坂洋三郎の名が刻まれている。 [13]碑文は徳富猪一郎(蘇峰)の撰、落合東郭の書、篆額(てんがく)は最後の米沢藩主上杉茂憲の子で上杉家第15代上杉憲章によるものである。 後に米沢市でも、戦犯として米沢藩の責任一身に背負って汚名を被った事で米沢藩を守った功績を称え1963年(昭和38年)に色部長門追念碑が建立された。また、2018年6月3日には、戊辰戦争150年を記念し、一般社団法人米沢観光コンベンション協会が、米沢・新潟 戊辰戦争ゆかりの地交流事業として、「色部長門顕彰と新潟の歴史を探る旅」を開催した。当日は「鷹山公と先人顕彰会」、「米沢御掘端史蹟保存会」、「米沢観光コンベンション協会」の会員を中心に45人が新潟へ来県、碑の前で碑前祭も行われ、中川勝米沢市長も参加した。

出典[編集]

  1. ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P615
  2. ^ 『甘糟備後継成遺文』「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月13日」甘糟勇雄編1960.6 P191-192
  3. ^ 「史談会速記録 合本19」千坂高雅談 原書房、1971-1976年P178、P248-249
  4. ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P624-625
  5. ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P11-13
  6. ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P640
  7. ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P16
  8. ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P14
  9. ^ 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P641
  10. ^ 『置賜文化(97)』「戊辰戦争と色部長門久長」佐藤章 置賜史談会 1997.6 P16
  11. ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P669「千坂高雅が禁固に処されたとき、上京した上杉茂憲は、戦争の首謀者について土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、高鍋の秋月種樹、それに黒田了介西郷吉之助らに諮り、その賛助を得て三条実美に委細を具申する。 つまりすでに新潟の攻防戦で戦死した家老の色部をもって千坂高雅に代る首謀者として具申書を改め、千坂の罪を寛恕されたい旨懇請したのである。その結果、廟議もこれを認め高雅の謹慎が解除されたのである。高雅は後になってこのことを知った。」
  12. ^ 「戊辰雪冤」米沢藩士・宮島誠一郎の明治P154-158 友田昌宏 講談社新書2009.8.20「宮島誠一郎が木滑に同伴し、鍜治橋の土佐藩邸を訪ねたのは12月18日のことである。・・誠一郎の対応にあたったのは側用役の西野彦四郎(友保)であった。 秋月の案(首謀者を色部として届け出る案)について説明を受けた西野は、山内容堂へのとりなしを請けおう。翌19日、木滑と誠一郎の両名は山内容堂の意見を聞くために再度土佐藩邸を訪れた。・・ここに至って、両名は、色部を首謀者として届け出るのでその旨をお含みのうえ御沙汰願いたいと西野に依頼する。 12月22日に、米沢藩は色部を「叛逆首謀」として新政府に届け出た。これによって、千坂・甘糟は連累を免れたのである。」
  13. ^ 「戊辰の役と米沢」戊辰の役戦跡訪問報告 下平才次P104-105 「色部長門追悼碑の裏面に発起者斎藤已三郎、賛助者21名の名が刻まれていたが、その中に上杉憲章、平田栄二、黒崎真也、黒金泰義、黒井悌次郎、千坂智次郎、千坂洋三郎、宇佐美駿太郎、八木孝助等の米沢人名があった」置賜史談会 昭和43.12.1

関連項目[編集]