舟越桂

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舟越 桂
誕生 (1951-05-25) 1951年5月25日
岩手県盛岡市
死没 (2024-03-29) 2024年3月29日(72歳没)
国籍 日本
最終学歴 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
活動期間 1977年 - 2024年
ジャンル 彫刻
公式サイト http://www.katsurafunakoshi.com/
 
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舟越 桂(ふなこし かつら、1951年5月25日 - 2024年3月29日)は、日本彫刻家[1]。 父は彫刻家の舟越保武。姉は株式会社すえもりブックス社長の末盛千枝子(すえもり ちえこ、1941年 - 、夫は末盛憲彦)。弟の舟越直木も彫刻家である。岩手県盛岡市出身。

略歴[編集]

1951年、彫刻家で東京芸術大学教授の舟越保武の次男として生まれる。1975年、東京造形大学彫刻科を卒業、東京芸術大学大学院に進学する[1]。1977年、同大学院美術研究科彫刻専攻修了。

1986年、文化庁芸術家在外研究員として英国・ロンドンに渡る。1988年、戸谷成雄植松奎二と共に第43回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表作家に選出される。舟越作品は好評を博し、帰国後には東京・日本橋の西村画廊で凱旋個展を行なった[2]。同年、第43回サンパウロ・ビエンナーレにも出品[1]

1989年、東京造形大学の客員教授となる。1992年、ドクメンタIX(ドイツ・カッセル)に出品[1]。同年、第9回シドニー・ビエンナーレにも出品。

2006年、両性具有像「森に浮かぶスフィンクス」を発表。

2024年3月29日、肺がんのため死去[3]。72歳没。

人物[編集]

小学3年生のころには父と同じように彫刻家になることを漠然と意識していた[4]。高校生時代はラグビーの練習に明け暮れていたが、美術予備校の夏期講習に参加したことで彫刻家になる意思を固めた[4]。浪人して東京造形大学彫刻科に入学したが、3年時にはラグビー熱が再燃し、学内でラグビー部を立ち上げている[4]

作風[編集]

画像外部リンク
『傾いた雲』(1988年)
国立国際美術館所蔵(独立行政法人国立美術館)
画像外部リンク
『銀の扉に触れる』(1990年)
国立国際美術館所蔵(独立行政法人国立美術館)

1977年、東京芸術大学の大学院生のとき、北海道北斗市トラピスト修道院から2メートル以上ある「トラピストの聖母子」の制作を依頼された。その際、大学の長沢市郎からアドバイスを受けという素材に出会った。硬さがちょうどよく、彫る速度が自分にあっている。「運命的な出会い」と舟越は語っている[5][6][7]

木彫による半身像は1980年に製作した「妻の肖像」が最初である[8]
目は、材質に迷っていたとき、父親のアトリエにあった大理石を使用したのが始まりである。 半球の大理石をコーティングして光らせ、竹の釘で留めたあと接着剤で補強する。 これは鎌倉時代の技法をアレンジしたものである[9][10]

その作品は多くの美術館に展示されているほか、国際的な現代美術展への出展も多い。また、書籍装幀などに作品が使用されるなど、その作品は多くの人々の目に触れている[要出典]

受賞歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 「舟越桂」『日本大百科全書』小学館
  2. ^ 「通訳のいらない木彫 舟越桂」『芸術新潮』1989年1月号、p.84
  3. ^ 彫刻家の舟越桂さん死去 72歳 半身像に大理石の目、本の表紙にも”. 毎日新聞 (2024年3月29日). 2024年3月30日閲覧。
  4. ^ a b c 舟越桂 インタビュー Gallery Tagboat
  5. ^ "水のゆくえ 舟越桂作品集" p.133
  6. ^ "生の科学、死の哲学 養老孟司対談集" p.95
  7. ^ "ヤン・ファーブル×舟越桂" p.177
  8. ^ "舟越桂全版画 1987-2002" p.133
  9. ^ "生の科学、死の哲学 養老孟司対談集" p.99-100
  10. ^ "舟越桂全版画 1987-2002" p.136
  11. ^ 春の褒章、705人24団体が受章:社会:YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  12. ^ 紫綬褒章:受章者 野田秀樹さんら25人”. 毎日新聞 (2011年6月15日). 2011年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月5日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「水のゆくえ 舟越桂作品集」1995年、京都書院 
  • 「生の科学、死の哲学 養老孟司対談集」2004年、清流出版 
  • 「ヤン・ファーブル×舟越桂」2010年、淡交社 
  • 「舟越桂全版画 1987-2002」2003年、青幻舎

外部リンク[編集]