篠原正美

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篠原正美(しのはら まさみ、1904年明治37年)1月1日 - 1986年昭和61年)10月21日)は、日本囲碁棋士福岡県出身、井上孝平六段に師事、日本棋院所属、九段。第2期本因坊戦最終リーグ戦出場、日本棋院選手権戦準優勝など。剛腕の力戦派で「重タンク」と呼ばれた。

経歴[編集]

井上孝平に師事し、1920年(大正9年)入段。若手棋士の研究会六華会に参加。1923年二段昇段。中央棋院を経て、1924年に設立された日本棋院に所属。1925年三段、1926年四段と昇段し、村島義勝橋本宇太郎とともに棋院三羽烏と称される。棋正社との院社対抗戦では、小野田千代太郎高部道平に先番勝ちし。雁金準一に敗れる。1928年春期大手合甲組優勝し、同年来日した呉清源の試験碁では最初の相手を務めた。1932年五段。

「統計博士」と異名をとるほど計数に明るく、1939年の大手合改革案作成など、棋院運営にも貢献した。

1950年七段。1954年に日本棋院選手権戦決勝に進み、高川格に敗れ準優勝。1959年、63年の首相杯争奪戦準優勝。1963年八段。1964年本因坊戦リーグ入り。1972年九段。1979年大倉賞受賞。1984年1月に現役引退。

1948年から九州一円の囲碁指導旅行を行い、1985年まで続けた。

1986年に豊島区の自宅で死去。同年勲四等瑞宝章受章。門下に桑原宗久八段、小西泰三九段。

著名な対局等[編集]

1951年前期大手合での炭野武司戦は、先番炭野の見落としによる「タケフ切り」の一局として知られる。

小目二間高バサミの白コスミに対する図の形で、黒11、13と打つ力戦定石型は篠原流と呼ばれる。

著作[編集]

  • 『詰碁のいろは』日本棋院 1976年

参考文献[編集]